4.出会い-1
美穂は近くのスーパーでパートとして働き始めた。八月は誰が何と言おうと文句なしに一年で最も暑い時期だったが、スーパーという場所は空調が効いているのでこんな季節でも比較的快適ではないかと美穂は思っていた。しかし甘かった。従業員がその労働時間のほとんどを過ごすのは、レジ打ちの係でもない限り裏手にある薄暗くだだっ広い商品搬入倉庫と事務所が主な場所だった。店内での商品陳列の仕事も、常に身体を動かしているためか、常に汗をかいていなければならなかった。かと思えば、冷凍食品庫の付近や搬入倉庫の脇にあるばかでかい冷蔵室は非常識に冷えていて、そのうち自律神経がやられてしまうのではないか、と仕事を始めて三日目まで美穂は本気で思っていた。その上、心機一転気分をリセットして臨むつもりのこの仕事場でも、前の職場での退職時のイライラが不本意ながら埋み火のようにとろとろと心の隅に残ったままだったので、慣れない仕事とは言え、商品の数え間違いとか補充忘れとかいうあり得ないような小さな失敗を繰り返す結果を生んでしまっていた。また仕事の内容の性質上、自分の持ち味である人に明るく接して快適な人間関係を作り上げていくという能力さえも十分に発揮できず、美穂はもやもやとしたストレスを常に感じていた。
それでも働き始めて一週間程経ち、美穂はようやく自分に合った仕事のペース配分のようなものをなんとなく掴めるようになってきた。
美穂は、その日の開店前、野菜、果物コーナーの陳列作業を言いつかっていた。
「今日は水曜日で野菜と果物の特売日だから、なるべく見栄え良く並べてね。そろそろ青果屋が来る頃だ」
店長が菓子の入った大きな段ボールを抱えて美穂の横を通り過ぎながら早口で言った。
はい、と彼女が返事をした時にはその小太りの店長はすでに菓子コーナーに姿を消した後だった。
小一時間ほど経ち、美穂が野菜の冷蔵ケースの拭き掃除を終えたばかりの時、店の奥から観音開きの大きなドアをカートで押しやって、一人の若者が姿を現した。くたびれたジーンズに「apple」という赤いロゴが大きくデザインされたTシャツを着て、売り場に入った所で一度立ち止まり、首に掛けたタオルで顔の汗をごしごしと拭いた後、彼は物珍しそうに自分を見ていた美穂と目が合った。
リンゴの入った三つの木箱をカートに載せ、青果売り場のディスプレイまでやって来た彼は、美穂に笑いかけた。まるで猫に引っかかれた傷のような細い目をして笑うその表情は、どことなく婚約者英明に似ていると彼女は思った。
「見かけない方ですね。新入り?」
彼はそう言いながら赤いリンゴを時折自分のTシャツでその汚れを拭き取りながら手際よく並べ始めた。
「そ、そうです」
美穂はいきなり親しげに話しかけられたのでちょっと面食らって上ずった声を出した。
「リンゴ、好きですか?」
彼は腰をかがめたまま、上目遣いで美穂を見上げ、持っていた一つのリンゴを持ち上げた。
「え? ま、まあ嫌いじゃないけど……」
「じゃあこれ。初めてお会いするからご挨拶代わりね」
その若者はまた目を細めて笑った。首に下がった『真田』と書かれたネームカードが揺れた。
「あ、ありがとう。あの……真田さんってお幾つですか?」
美穂が訊いた。
その男子はネームカードに手を当ててちらりと目をやった後、答えた。「21。もうすぐ22になりますけどね」
二歳下。なんだそれほど若者ってわけじゃないじゃない、と美穂は思い、いや待てよ、この彼が若者だったらあたしもまだまだ若者ってことじゃん、と自答して思わず笑った。
「何かおかしいこと言いました? 俺」
「あ、ごめんなさい、なんでもないんです。下のお名前は?」
「『誠也』です。かっこよくないですか?」
「自分で言う?」
今度はその若者の返答がおかしくてまた美穂は笑った。
青果や野菜は、ほぼ毎日誰かがその卸のために店を訪れていたが、真田誠也がやってくるのは水曜日だけだった。他の曜日は生活に疲れ切った様子で全く口を開かず黙々と作業をする初老の男性や、がさつな態度で店員を見下したような態度の中年の男性などがやってきた。それでも美穂は店長に、翌週から自分を野菜、果物コーナーの専属にしてくれと頼んだ。店長は怪訝な表情を隠そうともせず、訳が分からないと言いたげに、それでも彼女の申し出を承認してくれた。
その日から美穂は水曜日を心待ちにするようになった。いやいややっていた仕事にも何となく張り合いが感じられるようになっていた。言うまでもなくそれは誠也のお陰だった。同じ店内で働く同僚には見られないような明るく、笑顔を絶やさない爽やかさで自分に接してくる姿はまた、それまで美穂が出会ったどんな男性にもなかった特徴だった。毎週水曜日の開店前に彼と会話のやりとりをしていると身体の奥から元気になっていくのが実感できた。そして美穂は彼のことがもっと知りたいと思うようになっていた。