4.出会い-5
◆
毎週水曜日に誠也はスーパーにやって来る。いつしか美穂はそれを心待ちにしていた。しかし、二人が夕食を共にしてから誠也はぱったりとスーパーに来なくなった。最初の水曜日は、きっと何か事情があったに違いないと美穂は自分を納得させていたが、次の週も、その次の週も、朝から一日待っても彼は姿を見せず、違う男性がやってきた。美穂はひどく落ち込んだ。一緒にレストランで食事をした時に何か彼を怒らせることをしたのだろうか。気に障るようなことをこの口が? 態度がなれなれしかった? 美穂らしくないいろんなネガティブで根拠のない可能性が彼女の頭の中でぐるぐると渦巻いていた。
九月の二週目、水曜日に店に来たのはやっぱり誠也ではなかった。その日の退勤前に美穂は思い切って店長に訊いてみた。
「あの、いつも水曜日に果物を納入しに来ていた真田さんが先月の終わりからいらっしゃらなくなったのはなぜですか?」
店長は美穂に身体を向け、手を腰に当てて眉間に皺を寄せた。
「目に余るんだよ」
「は?」
「店内でいちゃいちゃされると目障りなんだ。少しは従業員としての責任と言うか節度を持って欲しいもんだね」
美穂は憮然とした表情で店長を見た。彼はたたみかけるように言った。
「他の従業員も言ってる。気づかなかったのか?」
「あたし、そんなつもりであの人と話してたわけじゃありません」
店長はふふんと鼻を鳴らした。「第一、君はもうすぐ結婚するんだろ? 何でも相手は学校の先生だとか。そのくせ別の若い男といちゃつくなんて、いい度胸じゃないか」
もう無駄だ、と美穂は思った。この人に何を言っても解ってもらえない。誠也を来させないように仕組んだのはこの店長に違いなかった。自分が十一月に結婚することはこの男には言っていない。同じ店内で働いている従業員の、比較的気軽に話ができると感じた女性には雑談程度で話したことはある。そこからの情報を店長は口にした。もうこの職場で信用できる人間は一人もいない。
もちろん水曜日にやって来ていた誠也と親しげに会話をしていたのは認める。だがあれを『いちゃつく』と捉えられていたことに美穂はひどく困惑し、憤りさえ覚えていた。前の職場を離れる原因となった出来事が自ずと思い出された。もしかしたら従業員の誰かが誠也を狙っていて、またあることないこと店長に吹き込んだのかもしれない。
疑心暗鬼の妄想は果てしなく膨らむばかりだということは美穂には嫌と言うほど解っていた。
「辞めたきゃいつでも辞めていいから。あんたの代わりなんぞいくらでもいる」
店長は吐き捨てるように言って、美穂に背を向けすぐにその場を離れた。
明くる日の朝、スーパーの事務室に入るやいなや、美穂はキャスターの壊れかけて傾いた椅子にだらしなく腰掛けて爪楊枝を咥えていた店長の前に立った。そして机の上の、しなびたキャベツの千切りだけが残された貧相な弁当容器の横に『辞表』と書かれた封筒を置き、言った。
「あたし、店長のお望み通り昨日限りで仕事を辞めました。お給料は契約通り口座に振り込んでおいてください」
店長は椅子から立ち上がりもせず、無言のまま片頬にうっすらと笑みさえ浮かべて、早く出て行けと言わんばかりに左手をひらひらさせ、机に置かれた封筒を手に取るとそのまま傍らのゴミ箱に放り込んだ。
その夜、ベッドに横になり、ケットを広げかけた美穂は、枕に顎を乗せて大きなため息をついた。
「あたし、調子に乗り過ぎかな……」
思えばこの一か月あまり、誠也のことばかりを考えていた。
思い返してみれば今まで美穂に親しげに話しかけ、近づいて来て親切にしてくれるのは年上の男性ばかりだった。高校の時につき合っていたのも一つ上の先輩だったし、短大時代にたった二か月だが交際していた男性も三つ年上の市役所職員だった。そして美穂はそんな男性の後ろからついていくような付き合い方しか経験したことがなかったのだ。誠也のように年下の男子から、生まれてこの方一度もされたことのないようなあんな切なげな目で見つめられることは想定外だった。そしてそのことで自分の身体にあれほどの変化が現れることも……。
しかし考えてみれば自分は彼の名前と少しばかりの身の上の事情を知ったに過ぎない。電話番号もメールアドレスも交換していない。それなのにあの若者のことが頭から離れない理由は明白だった。笑顔を向けられた時の心臓の音と身体の疼き。婚約者の英明にさえ感じたことのない気持ち。
「何なんだろう、これ」
美穂は熱を持ったもやもやとした思いに耐えきれず、くるりと仰向けになると、広げたケットで顔を覆った。
誠也の連絡先を聞いていたら、きっとすぐにでも電話を掛けただろう。今それができない状態なのは、神様か誰かがそれはいけないことだ、と諫めているからではないか。美穂はそう思うことにした。もうすぐ結婚する相手のことを一番に、その人のことだけを考え、思い続けるのが当然だろう? と諭しているのではないか。