3.初めての夜-2
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英明が美穂に交際を申し込んでから約一年後、あの日と同じような秋晴れの爽やかな午後、彼は『シンチョコ』に美穂を呼び出した。そして彼女の目の前に白いジュエリーケースを置いた。
「僕と結婚して欲しい」
美穂は恥ずかしげにうなずき、そのケースの蓋を開いた。細い金色のリングが輝いていた。
英明とこうなることは美穂には予測できていたし覚悟もしていた。世の中の多くの男女と同じように、順調に交際を続けて愛を育み、満を持して男性がプロポーズし、それを女性が受け入れる。そういうテキスト通りの展開が自分の身に起こったことを、美穂は誇らしく感じていた。自分も順調な人生のレールに乗れたという満ち足りた気分に浸っていた。
ただ、初めての夜からその日まで、英明が美穂の身体を求めたのは片手の指の数にも届かなかった。標準的な男性に比べると、その回数は極端とは言わないまでも少ないことは美穂も実感していた。
美穂は結婚について『家庭』という意識を強く持っていた。実際に英明は自分にとってかけがえのない存在になっていたし、自分の将来と彼の将来を重ね合わせると、二人にとって結婚という判断は最良のものに思えた。恋愛という言葉につきものの燃えるような思いというものは、得てして人間の判断を鈍らせてしまうものだ。最初に尊敬し合い大切に思う気持ちがあって、肉体的な繋がりは後からついてくる。そういったある程度の冷静さを持って結婚という人生の重大な局面を迎えるのがベストなのだと美穂は考えていた。そういう意味でも、身体の繋がりがきっかけでもメインでもない英明との交際は間違っていなかったと美穂は自分に言い聞かせるのだった。
結婚式を三か月後に控えた夏の日、美穂は二年間働いた職場を自ら退職した。勤めていた事務用品店のチームの仲間からあからさまに無視されるようになったからだった。
原因はこうだ。
チームの中でも抜きんでて愛想がよく明るい雰囲気の美穂は、取引先の学校などでもいろんな教師に声を掛けられ、親しげに話しかけられる場面が少なくなかった。もちろんそういうことを美穂は仲間に自ら吹聴したりはしなかった。逆に彼女はそういう仲間とは明らかに違う扱いを学校現場という仕事場で受けることに当惑すらしていた。
そしてそれが心配していた悪い方に転がったのだ。
S中学校の女事務長が美穂と英明のなれそめについて、悪意を含んだ枝葉をつけて会社の社長に告げ口をしたのだ。あの高森美穂という社員は学校でいろんな職員に色目を使い媚びを売って回っている。目に余るから何とかして欲しい、と。
その事務長は英明とは同期で、どうやら密かに彼を狙っていたらしかった。確かに英明はそこそこのルックスと高身長の持ち主で、授業やクラス運営に関しても生徒や保護者の絶大な信頼を得ていた。その上学校の教育の中心として、その活動の全体を束ねる研究主任としての実績もあり、言わば学校職員の模範的、中心的存在で、校長や教頭の管理職から常に教頭試験を受けるよう薦められるような人材だった。要するに将来有望なエリート教師で、先々管理職への道も保障され、それに伴って収入も増加していくという、女性にとっては結婚する相手として誰が見ても魅力的な人物だったのだ。
それを自分の目の前で、教材屋の平社員の女にまんまとかっさらわれてしまったわけである。何か仕返しをしたくなる気持ちはわからなくもないが、言ってしまえばただのやっかみに過ぎない。
あまりにばかばかしくて美穂は会社を辞めることを即断したのだった。
英明もそのことをひどく気にして、美穂が会社を辞めたと聞いた時、彼女の経済的なことを心配して結婚を早めるかすぐにでも一緒に住み始めよう、と提案したが、まだまだ健在で仕事も続けている親とも同居していて食うに困ることはとりあえずなかったし、何より結婚式に合わせて自分なりのモチベーションを高めている途中でもあり、そういう反吐が出る程低レベルかつ些末なことで予定を狂わされるのは心底いやだった。