2.交際-1
高森美穂は短大卒業後、町の事務用品店に就職し、主に配達の仕事をしていた。彼女は定期的に市内の公立学校を回り、授業で使う教材などの注文を受け、それを届けるというチームに所属していた。この仕事は特に年度初めが目の回るような忙しさで、得意先の学校の、それぞれの教科の担当教師がその年度中に使用する資料集やら問題集やらの注文をひっきりなしに伝えてくる。頼まれた一学年数百冊の教材ドリル集の入った段ボールをカートに乗せて汗だくで運んでいる最中に廊下で呼び止められ、一方的にあれとこれを持ってきて、と言われることなど毎度のことだった。それでも元来ポジティブな美穂は持ち前の愛想の良さでそれににこやかに応えていた。それが逆に他のスタッフをスルーして自分に注文を頼んでくる教師を増やす要因になっていて、美穂自身は少しばかり気まずい思いをしていた。
そんな教師の中、やはり得意先であるS中学校の数学教師増岡英明(31)は、美穂のそんな心の隅に縮こまっているちょっとした悩みを理解してくれる希少な存在だった。
「ごめん、高森さん、手が空いたら事務室に来てくれないかな? 数学の問題集を頼みたいんだ」
美穂は首に掛けたタオルを思わず外し、笑顔を作って言った。「あ、増岡先生。今でもいいですよ」
ポケットからメモ帳を取り出そうとした美穂を増岡は遮った。
「いやいや、その荷物を運んだ後で構わないよ」増岡はそう言いながら美穂が足下に置いた段ボール箱を見下ろした。「手伝おうか?」
「い、いえ、とんでもない。結構です。先生にそんなことをしていただくわけには」
増岡の申し出を丁重に断り、予定していた運搬の仕事を片付けた後、美穂はタオルで額の汗を拭いながら一階の事務室に足を向けた。
失礼します、と言って事務室のドアを開けた美穂の鼻をコーヒーのかぐわしい香りがくすぐった。
「ごめんね、高森さん、こんな所まで呼び出しちゃって。さ、どうぞ」
増岡はそう言いながら事務室のソファに座るよう美穂を促した。
「休憩がてら」増岡は美穂の前にコーヒーのカップを置いた。
「あ、すみません、こんなことまでしていただいて……」
美穂は大いに恐縮して身体を縮めた。
「君がチームの誰かと一緒に来てる時はこうして誘うのは気が引けるから、チャンスを窺ってたんだ」
増岡はウィンクをした。
美穂の会社は月に一度程度の定期的な学校訪問では単独行動を命じられていた。いくつもの段ボールに詰められた教材の配達の時は明らかに人手不足だったが、会社の効率優先のマニュアルに例外はなかった。
「ところで高森さんは幾つ?」増岡はセンターテーブルを挟んで美穂と向かい合って座った。
「え? あ、歳ですか? この夏に22になります。短大を出て二年目です」
そう、とにっこり笑って増岡は自分のカップを持ち上げた。笑顔になると目が細く垂れて、その逞しい体格に不釣り合いなほどの可愛らしい表情になるんだな、と美穂は思い、思わず頬を緩めた。
「若いのによく気がつくし、くるくるよく動くね。いつも感心して見てるんだ」
「そんなこと……」
美穂は恥ずかしげにうつむいた。
そんなことがあってから、美穂は自らS中学校への教材配達を買って出て、そこを訪れた時は、決まって最後に増岡英明に何か注文はありませんか、と尋ねるようになっていた。そんな時、増岡は決まって事務室に美穂を呼び、他愛のない話をしたり聞いたりしてくれた。
美穂の心の中に占める増岡の存在は確実にその割合を増していた。
ある秋の日。いつものようにS中学校を訪ね、事務室のソファで半ば無理矢理くつろがされた美穂は帰り際、玄関で増岡に小さく折った紙切れを無言で手渡された。
校舎を出て、駐車場に駐めた社用車の運転席に座った美穂は、そこで増岡からもらった紙を広げた。