第5話-2
沙耶香は完全に手詰まりに陥っていた。
取り戻すに越したことは無い。
だが持っている相手が内容を確認したのかどうかも全くわからない状況で、こちらからアプローチをかけるのも危険であった。
対応方法が思いつかない、無明。
不安と焦りで憔悴していくのを自覚していたが、打つ手が無い以上、気もそぞろに数日を過ごすしかなかった。
だから前田からアプローチが来たときには、どういう結果になろうとこのやきもきした状況からは開放されるという安堵感があった。
もちろんまた身体を要求されるなどの最悪な状況を想定した上でのことではあるが。
校門前で前田に捕まったらしいシンジが伝えてきた言伝。
「河川敷で待つ。用件の内容は東条がわかっているはずだ」
………
前田悠一(まえだゆういち)はキレたらどうなるかわからないという噂が全く想像できない、あどけない少年の面影を色濃く残す甘い顔をした男であった。
少し浅黒い面貌は深い二重の眼差しを持ち、短めのリーゼントにしたヘアセットと相まって白黒映画に出てくるアメリカの俳優のようだった。
改造制服を身にまとい、バイクに跨ったままの前田を見た第一の印象はそれだけであった。
数メートルの距離を置き、対峙する。
既に何を要求されても動じない心構えをしていた沙耶香は気丈な眼差しで相手を睨み付けていた。
対する前田は静かな面持ちで強い視線を受け止めており、その目からは何の感情も読み取ることはできなかった。
何を考えているのかわからない。
警戒心だけが否応なく高まっていく。
「あんたが前田? アタシに用があるって?」
焦れた沙耶香が遂に言葉を発する。
ピクリと眉を上げた前田は答える。
「……ああ。単刀直入にいくぞ。猪熊とかいう最低な野郎のとこから奪ったものの中にこれがあった。これ以上は説明の必要はないな?」
学ランのポケットから取り出したのは、沙耶香が渇望して手に入れるために全てを投げ出した物体に他ならなかった。
意識が奪われる。
目が離せない。
魅入られたように身体が固まってしまう。
それでもやっと声を出した。
「……何が望み?」
搾り出した震える声を受けた前田の顔に浮かんだのは、これまで周りの男たちが浮かべたものとは全くことなるものであった。
同情……悲しみ?
眉を顰めたファニーフェイスから感じる印象を、しかし素直に信じることは出来なかった。
これまでの凄惨な経験が少女を男という生き物に対して頑なにしてしまっていた。
獰猛なオスたちに翻弄される中、少女が生存するために身につけた哀しい性(さが)であった。
だから前田が手にした物体を足元に投げ、ジッポオイルをどぼどぼとかけて火をつけたとき、目の前の光景をどう解釈していいか全くわからなかった。
呆然とする沙耶香の前で、ゆがみひしゃげくねらせながら燃え溶けていくシリコンの物体。
それは散々苛なまれてきた悪夢が物理的に消滅していく様そのものであった。
既に完全に燃え落ちて白い煙だけが細く伸びている。
それでも沙耶香は身動きできないままにそれを見ていた。
だから前田がずっと自分の顔を見ていたのだと理解したのも、それからやっと顔を上げて数分ぶりに相手と視線を合わせてからであった。
呆けたような顔をしたまま、聞く。
「……どういうつもり……?」
少年の顔からは相変わらず何も読み取れない。
ただわずかに感じた同情や悲哀のようなものが勘違いではなかったのではないかと思う響きがその声音にはあった。
「別に……。ただ俺は妹を狙ったクズ野郎の別の被害者をついでに片付けただけだ。俺が調べた限り、他にコピーとかは無いみたいだぜ。お前が何をされていたのかは知らなえし、知る必要も無いと思ってる。たまたまついでに手に入ったもんを始末するために呼び出した。……それだけだ」
聞こえてくる内容を未だ理解しきれていない。
まさか、こんな形でいきなり開放されるなんて。
そんなことが……?
「さっき何が望みかとか言ってたな。……じゃあ、また会いにくる。ただしお前を縛るものは何もないから、会うか会わないかは好きにしろ」
言って、400ccのエンジンに火を付けて爆音を鳴らし始める。
そしてちらりとこちらを見た少年の顔。
所作も含めて、その表情に照れ隠しをする人間の強張りを見たような気がした。
「……東条。今度はもうちっと可愛い顔していろよ」
そのまま二、三度エンジンを吹かしたあと、前田は走り去った。
童顔で甘い顔からは想像もできないスピードで消えていく。
その姿が全く見えなくなったあとも、ススキの茂る河川敷の上で沙耶香は一人、呆然とその方向を眺めて佇んでいた。