上京-1
オーナーとは事務所の最終面接以来会った事がなかった。所属するプロダクションは設立5年目の新しい事務所だったがオーナーの沙也加さんはわたしが中学生の頃から憧れている本物のプロモデルだった。モデルとして突然引退して全く世間に出なくなった沙也加さんが事務所を開いていたことを知ったのは受験を控えた夏の些細な出来事が始まりだった。
何気なくモデル事務所を閲覧していたわたしは幡ヶ谷プロのモデル事務所の設立を眺めていたときだった。
代表取締役社長 進藤 稔
取締役員 青山 美咲
取締役員 鏑木 麻美
社外取締役員 ジャスミントリエンカ
社外取締役員 ビアンカパルティエ
社外取締役員のことをわたしは詳しく知っていた。二人ともイタリアで活躍していたトップモデルだった。沙也加さんと並んで歩く当時の雑誌は今も大切に保管してある宝物のひとつだった。
「オーディション受けてみよう」
もしかしたらビアンカに会えるかも知れないトリエンカにも近づけるかもしれない。そんな夢が必然と目の前に広がっているようにわたしは確信してしまっていた。
オーディションにこっそり応募したわたしに書類選考合格を知らせる通知が届いたのは年明けの受験を控えた最後の追い込みをしているときだった。最終面接は1月26日 幡ヶ谷事務所で自身をアピールして下さいと合格通知に書かれていたわたしは受験どころではなくなりその日に向けて身体の点検と当日のリハーサルを何度も重ねる日常を過ごしていた。
「子供の頃からモデルの真似ばかりしてきたわたしなら大丈夫。見下すように堂々と歩くのよ」
自分自身を暗示させながら姿見に向かってモデルウォークを繰り返す毎日を過ごして向かえた当日だった。
「川瀬 夏希さん。どうぞ」
鏡に囲まれたフロアに置かれた椅子にはびっくりするほど美しく輝く本物のモデル達がわたしを試すように睨んでるようだった。
強い目線に怯むわけにはいかないわたしは「大丈夫。モデルとしては少し身長が低いけれど身体のバランスは十分通用する。素顔だって言い寄られてきた男の数はそこらへんの女子を圧倒してきたのよ。堂々とするのよ」と強い気持ちで大胆に力を抜いて長い脚を魅せつけるように姿勢を伸ばして何度も練習してきた笑顔の顔の位置を保ったまま机に座る女性に何度もリハーサルを積み上げてきた満面の笑顔をモデルの鼻先に大胆に近づけて至近距離の瞳にウインクを魅せて優しく微笑むように颯爽と振り返って鏡に映る自分に満面の笑顔で手を振りながら歩き終えたところだった。
「合格よ。この娘」
「素人なの本当に」
喝采を浴びせるように睨みつけていたモデルさんがわたしを褒め称えた途端、わたしはフロアに崩れ落ちるように溢れる涙が止まらなかった。
「今日は内緒で来たんでしょ」
美しい女性がわたしを抱きかかえるように身体を支え「オーナーに説明するから付いてらっしゃい」と奥の階段を登り豪華な応接室にわたしを通してくれていた。
「始めましてかしらね。夏希ちゃん」
目の前に手を差し出した女性はあれだけ憧れ続けていた本物の沙也加さん本人だった。
「いやだ、嘘でしょ」
応接室でまたしても大泣きしてしまったわたしに沙也加さんはこっそりと「困ったときは此処を頼るのよ」と手書きの紙を渡して「所属の手続きは全て会社が進めるから夏希ちゃんは4月に事務所にちゃんと来るのよ」と何度も擦り切れるほど見直していた当時と変わらない美しい満面の笑顔でわたしに手を振り「受け入れ体制は頼むわよ」とモデルさんに指示して奥の部屋に戻る間際にもう一度わたしを振り返り美しい笑顔で手を振りながら「またね夏希ちゃん」と言い残して奥の部屋に消えてしまっていた。
呆然と見惚れたわたしは自宅に帰ったら絶対に引かない強い気持ちで上京を伝えようと覚悟を決めてその場を後にしていた。