季春。-4
先輩が七都呼ちゃんを可愛がってるという噂は、彼女が会長に就任して間もなくから囁かれ始めた。
それでもたいした騒ぎにならなかったのは、彼女には『彼氏』がいたからだった。
正しくは、二人は付き合っていなかった。しかし、彼女を事あるごとに支えたのは紛れもなく『彼』だったし、二人が両思いなのは傍から見ていて一目瞭然だったのだ。
だから、雪二先輩の位置は『優しくて励ましてくれるお兄さんみたいな先輩』以外有り得なかった。そして、彼女自身の気持ちや周りの憶測なんかはねのけるくらい、先輩は自然にそのポジションに座っていた。
その先輩が七都呼ちゃんを好き。敢えて身を引いている。
普通に考えればその可能性は充分有り得るものだったのに、みんなは早々とその考えを捨てていた。
それは、とても残酷な事。好きな相手に決められる前に、すでに周囲によってポジションは動かせなくなっていた。
それを、彼女もきっと当然のように受け入れている。
それが先輩の意志だと思って。
「……確かに、ミツトの言ってる事は正しいよ。それに俺の事を思って言ってくれている、ってのもわかってる。ハタから見てて痛々しかったかもしれない」
数秒か、それとも数分か。混乱していてわからなかったけど、沈黙のあと、雪二先輩は静かに切り出した。
「だって、俺の『位置』は周りから固定されてて、もうどうにも出来ないところまで来ちゃったからさ。…でも、それは俺自身が選んだ事でもあるんだ」
「……………」
「彼女は、どこよりも安全だ。みんなにとって、何よりも俺にとって」
「…………安、全?」
「誰も傷つかない、安全な恋ができるだろ?彼女は俺の事を好きにならない。俺も彼女を本気で好きにならない。いや、なれない。だって手に入らない存在だから」
「雪二……」
掠れた声が不思議と廊下に響く。
「……手に入らない人を好きになる気持ち、わかるか?全然辛くも苦しくもないんだ。彼女がフリーじゃないから、俺は彼女を欲しいと思わずに済む。傷つかずにすむ」
まぁ理性で抑えられる、そこまでの気持ちなのかもしれないけど、と先輩は小さく笑う。
「臆病とか女々しいとか、好きに言ってくれてかまわない。けど、俺にはこの状態が一番なんだ」
「……………」
「……たまにさ、すんごい必死な顔して告白される事があるんだ。でも、俺にはそのコにそんな一生懸命な気持ちで告白される資格は、ない。だって、安全な場所で踏み出しもせずにのうのうとしてるんだから」
「……………」
「それに気付いてから、今までの申し訳ない、って気持ちの他に、自分のずるさがわかった。そしたら益々気持ちを伝える事が出来なくなった」
だからもうこの話はやめよう、と言われ、ミツトさんはかける言葉が見つからなかったようだ。
しばらく黙った後、ぽつりぽつりと話して、二人は帰って行った。
…そう、あの日から私は決めたのだ。
雪二先輩を追い掛ける事をやめよう、と。
だから、再三ふーこに聞かれている質問に答えるとしたら、きっと私はこう言うだろう。
先輩なは好きな人がいるから不毛なんだよね。それに先輩を苦しめる取り巻きをやめたいから。
でも、そう言ったら私は一からふーこに話さなきゃいけなくなる。
それは嫌だった。
盗み聞きしていたのを知られるのが嫌とか、単に礼儀として話さないとかじゃない。
好きな人の秘密を守りたい、わけでもなかった。
ただ私は雪二先輩の事が『好き』だから。
我ながら変だな、と思う。矛盾していると思う。
それでも、そんな辛い話を少し笑いながら話す先輩へ生まれた微妙な気持ちは、消える事はなかった。
同情?憐憫?…違う。私は、先輩の『優しさ』を守りたかったのだ。
胸が高鳴ったり嬉しかったり、そういう気持ちとは程遠く、私は先輩がいつか報われますようにと願っていた。
今の恋が実らなくても納得出来る結末を迎えられれば、そして次の恋はちゃんと実りますように、と。
その相手は私じゃなくて良かった。だから、この気持ちは恋愛感情ではない。それでも敢えてくくるなら、これはそうなのかもしれないけれど。