前章(三)-1
此の街にも夜の帳が下り、闇に包まれようとしている──。炭鉱長屋と称される住宅密集地域の家々に明かりが灯り出し、其処、彼処から煮炊きする匂いが漂い始める頃、時を同じくして此の街に於ける“もう一つの顔”が、姿を現す。
街の西端に位置する遊興場や遊廓等と言う、夜間のみ営業を行う店屋の事で有り、幾つもの店が軒を並べて、競い合う様に派手な飾り提灯や看板を纏い、その存在を強調するのだが、その姿は丁度、街の男達を手招きしている様に映っていた。
産炭場は昼夜、休み無く稼働し続けており、一日の勤務を朝から夕方、夕方から夜中、夜中から朝方と、八時間毎に区切られた三交替勤務制を敷いており、坑夫達は、一日毎に勤務時間帯を移動する事により、三日働いたら一日休みと為っていた。
実際、大の男でも肉体的に辛い産炭場の仕事だが、女、子供でも長期に渡って勤められるようにと言う、伝衛門の工夫の一つでも有った。
坑夫の日当は、作業によって区々で、主に女、子供が携わる選炭作業だと、凡そ八十銭。そして、殆どの坑夫が従事する石炭の採出作業で、略、倍の一円五十銭。更には、発破を仕掛けたり、掘削した坑洞の落盤防止として梁を組み、補強する等の技術職や常に落盤の危険を伴う切り出し作業に従事する者達なら、その金額は二円五十銭と飛び抜けて高額な上に、危険手当て迄、支給されている。
一般に、高給取りで知られる大工職人が、凡そ、一円である事と照らし合わせれば、産炭の隆盛が際立っている事が、判ると言うものだ。
かつて、伝衛門の小作として与えられた田畑を世話する事を生業としていた者達も、鋤(すき)や鍬(くわ)を、鶴嘴(つるはし)やシャベルに替えた事で、今では、数倍もの現金収入が安定して得られるに至り、此れまでなら望んでも叶うべくも無かった人並み以上の暮らし向きが、送れる迄に為った事を喜び、皆、伝衛門の慧眼ぶりを、驚嘆するばかりで有った。
やがて、小作達は自分が携わる産炭に対して、「親方様のおかげで、自分達は国の発展の一翼を担う仕事に携わっている」と、遂には、誇りに思う者さえ現れ出る迄に至ったのだ。
ところがである。人間、誰しもが小作達の様に矜持(きょうじ)を胸に刻み、仕事に従事する者ばかりとは限らない。否、逆に稀有な存在だと思うのが一般的で有ろう。
現に、坑夫の大半を占めているのは※1科人や※2賤人※3朝鮮人なる者達で有り、彼等の特徴の一つとして野鄙(やひ)なる者が多く、分けても“呑む、打つ、買う”の遊興に目が無い等、得た金を遊びに費やす事で日頃の憂さを晴らそうとする者が、多かった。
そんな彼等に共通しているのは、所帯持ちと成って身を固めるなり、又は、自ら事業を興そう等と志す者は皆無で有って、其こそ、稼いだ金は右から左へと浪費するばかりで有る。蓄えよう等と、殊勝な心掛けを持つ者は、略、見当たらない始末で有った。
同じ坑夫でも、夫や父親なる担い手を早くに亡くした女、子供が潜在的に目指す“粉骨砕身を尽くし、青貧を貫く”とする、尊い生き方は合わない性分で、やくざな道を正道とする“禄で無し”ばかりであった。
しかも、昼間勤務だった坑夫は、次の勤務日が明後日の未明と、一般的な休日よりも長時間与えられてる為、大いに羽目を外そうと、仕事を終えた独身坑夫達は夜の訪れと共に、挙って色街へと繰り出すのだった。
此の街に存在する全ての店は伝衛門の所有物で、色街と言えども例外では無い。店主達は売り上げ金の一部を伝衛門に納める取り決めによって、店の営業、管理を任されているのである。
殆どの坑夫は、自ら稼いだ金の幾らかが巡り巡って、再び、伝衛門の懐に入っているのを承知している。が、此の件に関して不平不満を漏らす不心得者は、唯の一人も無かった。何故なら、此の街に於ける伝衛門の尽力を、皆が知ってたからに他ならない。
坑夫は勿論、その家族も含めた暮らし向きを良くする事こそ、結果として高い産炭能力に繋がると確信する伝衛門は、ずっと街の発展に尽してきた事を、彼等は知っているのだ。
そんな事実と比べれば、実に些細な事だと皆が認識しているのである。その証拠に、他所から流れて来た者は必ず、此の街を「此れ程、住み心地の良さと労働条件の好さが備わってる街は、二つと無い」と、びっくりする程で有った。
味方に付ければ、此れ程、頼りになる者は居ない。が、袂を分かつ真似をすれば、あれ程、怖い存在は二人と居ない──。伝衛門に逆らった者が、如何なる処遇に至ったかを目の当たりにしてきた古参の住人は、多くを語らない。此の事実が尚更、坑夫達に、畏怖と信頼の両方を植え付けていた。