前章(三)-4
伝一郎が部屋に戻って暫しの時間が経ち、産炭の街に朝日が射し込む頃、伝衛門の屋敷も目を覚まし、一日が始まる──。女給達は、互いの挨拶もそこそこに、予め決められた各々の持ち場へと小走りで向かう。
朝食の準備に追われる者や届いた荷物を運び込む者、裏庭に設けられた畑や養鶏場の世話を焼く者、庭掃除に精を出す者と、従事する内容は区々だが、朝食を挟んで午前中一杯、何かと忙しい時間帯と為っていた。
そんな周囲の喧騒など我関せず、とでも云いたげに眠り続ける者が一人──。伝一郎である。
床に就いて未だ二時間足らず。今時分は深い眠りの直中に有り、多少の騒ぎでは目を覚ます事も無い。それに、彼が起きるのは決まって皆の朝食後と為っていたので、それ迄には幾らか時間が有る状況だった。
そんな朝早い時刻にも拘わらず、何の前触れも無く、部屋の扉が静かに開いた。
「あの……坊っちゃま」
現れたのは夕子──。部屋係として主を起こしに参じた様だが、その様子は、些か、異質に見える。上気した頬に潤んだ瞳と、その形相は、熱病でも患っているかの様に朧気で有った。
彼女の様子に変化が加わったのは、伝一郎と初めて対面した翌朝からだった。
初対面の朝、伝一郎の命によって“朝の儀式”と称した接吻を毎朝やらされる事と為って、本日で四日目。当初は、強引に承諾させられた事を、「幾ら、親方様の御子息だからって、好いた者同士の真似事をさせられるなんて……」と、強い抵抗が有った。
ところがである。自身の口唇が伝一郎の口唇に触れた刹那、夕子の心情は激変する──。とても柔らかい感触に、心地良さを感じたのだ。
──そんな筈、有り得ない!
直ぐに思いを打ち消し、心の中で「私は、大恩有る親方様を裏切る真似をしてるんだ!」と、背徳行為に及んだ事への慚愧に心痛を極め、何度も々、否定を繰り返す。が、一方で夕子は心の片隅に、「年頃の娘なら誰だって、好いた人との接吻に憧れを持つもの」と、する持論を唱えていた。
更に挙げれば、「此の街の女は、好き合う事さえ儘ならず、親同士の決めた縁談で言われるままに嫁がされ、その上、夫や子供、そして“家”に仕える事こそ女の幸せだと、幼い頃から刷り込まれて来た」等と、此の街が農村の時代から連綿と続く、哀しい古習の犠牲と為った多くの女達の姿を、夕子は、幼少の頃より幾度となく面(まのあた)りにして来た事に端を発した、「古い慣習なんか、早く無くなれば良いのに」等とする強い信念を、何時の間にか潜在下に宿していたので有る。
そして今、過程はどうあれ、自身が慣習に抗う行為へと臨み、見事に完遂した事で、彼女の胸の内には達成感や優越感、そして虚栄心迄もが涌き上がり、強く煽り付けていた。
相反する思いの狭間で、夕子の心はジレンマに陥り、乱れて行く──。此れだけ、複雑な葛藤を繰り広げながらも、彼女は接吻を止めようとはしなかった。
すると、夕子の背中を締め付けていた伝一郎の腕が緩み、代わって、両の掌が頬を優しく包み込んだ。不意の出来事とは言え、頬を包まれる事など幼少の頃以来で、夕子は、接吻とは違った心地良さを感じていた。
二つの心地良さによって、夕子の緊張は解け、平静さを取り戻そうとしていた矢先、伝一郎は強く口唇を押し付け、剰(あまつさ)え口内に舌を入れて来た。
ぬるり、とした感触の異物が、夕子の口内を舐(ねぶ)り回す。彼女は驚き乍らも、伝一郎の責めに堪えていた。
そして、彼女の舌が舐り上げられた刹那、全身を総毛立つ程の快感が、一気に駆け巡ったのである。
初めて知る快感は、夕子の思考を大いに狂わせ、狼狽えるばかりでなく、可笑しな言動へと導いた。
「こんな事するなんて……聞いてない」
長い接吻が終わった後、伝一郎に対して怒りを露にしたのは、単に不快だからで無く、此のまま快感へと引き摺り込まれ、後戻り出来なく為りそうな自分に畏怖し、怒りで誤魔化したのである。
あの日以来、夕子は、此の部屋を訪れる度に、自分が心躍らせ、身体の芯が熱く為るのを知った。
その代償として、当初は背徳感から為る巌然たる罪悪感を持っていたのだが、罪の意識は既に薄らいでしまった上、今では意識しないと平静さを保ってられない程、頭の中が興奮してしまう自分が居る──。夕子が幾ら否定しようが、既に快感の虜に陥っていたのだ。