前章(三)-10
「その……お裁縫や、薙刀の授業がどうにも出来なくて。何時も、乙……時には丙を」
「えっ?でも、先日、僕のハンカチを上げた時、自分も裁縫するからって、母さまの事を褒めてくれたじゃないか?」
「それは……お、お裁縫が出来ないからこそ、腕の良さが判るんです!」
枕元から見上げる夕子の姿が、見る々と萎んで行く様に、伝一郎は感じた。
すると、肚の底から可笑しさが込み上げて来た。
「あははははっ!」
夕子は驚いた。自分を腹の上に抱えたまま、狂ったように哄笑(こうしょう)し出した伝一郎の姿に。
「な、何が、そんなに可笑しいんですか?」
伝一郎は問い掛けに答えず、暫く笑い続けていたが、夕子の視線を痛く感じ取ると、何とか笑いたい衝動を抑え付け、漸く口を開いた。
「さっき迄、僕の上で自慰に耽っていたうら若き乙女が、女学校時代の成績の話で威張り出したり、急に悄気返ったり。
その変わり身の俊敏さが、実に滑稽に見えてしまって。つい、可笑しくってさ!」
此処迄、答えると、伝一郎は再び哄笑を始めた。
その様子を上から見詰める夕子。自分が笑いの種にされてる事は、正直、気分の良いものでは無い。
初めは少し憤慨していたが、破顔一笑する伝一郎の姿を眺めてる間に、自分も可笑しさが込み上げてしまい、遂には、一緒に為って笑っていた。
顔を見合わせて、笑顔を交わす伝一郎と夕子。互いの胸の内に温かい物が涌き上がり、心を通わせていた。
「全く……気が殺がれてしまったな」
「えっ?」
「さっき迄の調子なら、夕子と目交わえるかもと思ったのに、今の件で一物の方も、すっかり萎えてしまった」
夕子は、再び頬を赤めて俯いてしまった。確かに、伝一郎の言葉通り、自身の内腿に当たっている淫茎に先刻迄の剛直さは無く、彼女も、弟等のでよく知る軟らかい状態に、萎んでいた。
「何だか不思議です。あんなに硬かった物が、こんなに変わるなんて……男の人のって、海鼠(なまこ)みたいですね」
「海鼠とは、随分な言い種だな。確かに、刺激よって固くなったり、柔らかくなったりするけど、あれは、細かい関節の働きによって固さを変えてるそうだから、全く別物なんだけどね」
伝一郎は、そう答え乍ら、夕子のはだけた上着を整えてやった。
「──まあ、それは置いといて……女が女陰を濡らすのは、好きな男を受け入れる準備だと言う様に、男も、意中の女と情交したい気分に為らないと、勃起しないんだ。基本的には同じだよ」
「そう……なんですね」
伝一郎は、さらりと答えたが、聞いていた夕子の方は、少し様子が可笑しい。俯き加減で、表情が強張っている。
話の流れとは云え、少なくとも伝一郎は、夕子の事を“情交したい位に、愛しい相手”だと、認めた事と為る。
夕子は「伝一郎様も、私の事を好いてくれているんだ!」と叫び、今直ぐ、此処から飛び出して踊り出したい程、有頂天な気分だった。
しかし、悲しいかな生まれて此の方、異性を好いた事も、好かれた事さえ無かった。そんな清節極まる少女には、如何様な態度を取るべきなのかが不明瞭で有り、結局、顔を攣(ひきつ)らせる以外、何も出来なかったのである。
繊細で、複雑極まりない少女の心の変化を、年上女の扱いに長けた伝一郎が何処まで把握出来たのかは、不明で有る。
「ああっ!そうだ」
心の中で、喜びを噛み締める夕子を置き去りに、伝一郎は、何かを閃いたかの様に手を鳴らし、話題を変えた。
「ところで、夕子は今日、暇は有るかな?」
「えっ?どういう事ですか」
「街に出て見たいと思ってさ。案内して貰えないかな?」
「それは、ちょっと……」
街中の案内役と聞いて、夕子は一瞬、心躍らせたが、直ぐに表情を曇らせてしまった。屋敷における“姉様方”の顔が、浮かんだからである。
当然、伝一郎も、その辺りの事情を承知している。
「他の姉様達への負担を考えているのなら、心配は要らないよ。きちんと香山さんに許可を取るから」
「でも、私、大して詳しく無いですし、案内役はちょっと」
「別に構わないよ。僕は、夕子と一緒に行きたいんだから」
「えっ!?」
伝一郎の言葉に夕子の顔は、みるみる赤く為る──。聞いている方が恥ずかしく為る様な科白を、臆面も無く言える事も、彼の強味で有った。
しかし、次の刹那、夕子の瞳からは、涙が溢れ落ちていた。