気配-1
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戻ってきた馬の口を取った厩務員が、
「ヒドいやないっすか。二番人気ですよ?」
と文句を言って睨み顔を向けてきた。
「あー、すまん。前に行きたかったんだが、出てすぐに隣にぶつけられてな。お前も見てただろ? 行き脚つかねえで外回るハメになっちまった」
降りた征嗣はゼッケンを外しつつ答えたが、
「にしても、ブービーはないでしょ。着くらい拾ってくださいよ」
彼らにとっても成績は死活問題であるから、容易には引き下がらなかった。
「……仕方ねえだろ、ずっと引っかかりっぱなしでレースにならなかったんだからよっ。だいたいよ、あれくらいでバカつかねえように、お前らもちゃんと仕込んどけっ」
不機嫌に語気を荒げた征嗣は、鞍を抱えると目も合わせず検量室へと向かっていった。背後でクールダウンの引き運動をしつつ、
「そこを何とかすんのが、ジョッキーちゃうんかい。……もうあかんわ、このオッサン」
舌打ち混じりに呟いたのは聞こえていた。
後検量を終えて顔を洗い、調整ルームへと戻った。大部屋でモニターを眺めていた騎手の何人かが、征嗣が戻ってきたのに気づいて、お疲れ様です、と声をかけた。それに黙って手を上げて応えると、喉の奥から疲れの呻きを絞り出してソファに腰を下ろした。テーブルの上に置いていた煙草を取ったが、しばし煙を吸い込まずに、背もたれに身体を預けて脱力した。
モニターの中では今しがたのレースの表彰式が行われていた。メインレースの表彰式に最後出たのはいつだったか。征嗣は視界に立ち上り始めた煙の向こうで、表彰式なぞもう三桁は経験しているだろうに、馬主や厩舎に最大の礼を尽くしている白人騎手を漫然と眺めた。
「――今日五勝って、俺らんとってはもう、嫌がらせどころか、イジメでしかあらへんの」
一人の騎手が呟くと、
「ってか、何しに来てんだよ、コイツ。……ココに、じゃねえぜ? 日本によぉ」
椅子に逆向きに座った隣の騎手も吐き捨てるように言った。
白人騎手は見事な立ち回りで、危なげなく人気馬を勝利に導いた。確かに実績と調子を考えると、彼の馬でほぼ確実だったのだが、いざレースが終わって人気を背負った騎手が煮湯を飲まされるところをこれまで何度も見てきた。ソツ無く人気通りの結果を出す難しさ。それを知っていればいるほど、試験に合格して日本の騎手として活動している外国人騎手の巧みさと隙の無さはまったく脅威だった。
「ホンマやで。コイツおらんかったら、ここにおる誰かがこの馬乗れてたかもしれんのにの」
いいや、無理だろ……。征嗣は年齢と年数だけは中堅を迎えている彼らを心の中で侮蔑した。今の時間にここにいる、ということは最終レースには騎乗がない。中央開催が行われている裏のローカル特別レースとはいえ、モニターへ向かって情けない愚痴を吐いている騎手に、メインレース有力馬へのお声なんぞかかるわけがない。
イラ立っていたところへ、
「へへっ、お疲れ様です」
と、井野が戻ってきて、征嗣の隣に座った。
「……おい、ぶつけてんじゃねえぞ、お前。ゲートくらいしっかり出せよ」
征嗣はぞんざいに煙草を灰皿に潰すと、その手で井野のアンダーシャツを掴んで引いた。
「す、すんません。開いた一歩目で躓きましてん。カンベンしてくださいよ、ヘタクソなんすから」
一番嫌いな言葉が放たれて、すきっ歯を見せてヘラヘラしている井野の顔面へ拳を奮ってやりたかったが、
「始まるぜ」
声が上がった方へ目を向けると、切り替わったモニターに輪乗りの模様が映し出されていた。征嗣は面だけで井野を威嚇していたが、伸びたシャツを離し、バシンと肩を平手で打つだけに留めた。いてて、と大袈裟に、しかし半笑いのままで声をあげた井野は、すんませんした、ともう一度言った。
東のメインは牡馬クラシックのトライアルレースだった。春シーズンに活躍していた馬、夏開催で勝ち星を上げて重賞に挑戦するまで出世した馬、ここにいる全員、そんな高貴な馬に縁はない。
「やっぱ瀬田さんの馬かな」
「この森田っちゅーボケが乗ってる馬も、前走強かったんやろ?」
「展開が向いたんだ。今日は前みたいには楽できねえよ」
「いや、森田はともかく、俺は徳井が一発、なーんかカマしよるんちゃうかと思ってんねんけどな」
何かってなんだ――競走馬に乗ることを職業としている自負が話ぶりだけは一丁前にさせている。
「おっ……、今日もアイ様はお可愛いくていらっしゃる」
輪乗りの中で唯一、ヘルメットの後ろから結い髪を垂らしている騎手を見つけると、予想談義は早々に打ち切られ、モニターを見ていなかった騎手も愛衣の名前を聞いてやって来て、立ち見をし始めた。