気配-8
今日、小柴はメインレースまで西で乗っていたから、それから東上して調整ルームに入ったということになるが、大部屋で顔を見かけることはなかった。おそらく挨拶もなく入室して、背後を通ったのだろう。小柴は征嗣の指摘には答えず、軽く笑っただけだった。
「なんだか、こんな時間にココで会うことが多くねえか?」
「なんだよじゃねえ。お前が待ち伏せしてるんじゃねえのか?」
この軽口にも反応はなかった。レース前日のこんな時間に、騎手がサウナに入る理由は一つしかない。だがお互い、そんなことは口が裂けても言えなかった。
暫く小柴は黙っていたから、征嗣も何も言わなかった。壁や敷板を伝うモーター音だけが唸っていた。身体の芯が灼かれてきて、汗腺に滴が浮き立ち始める。
「今日も勝ったな」
「……あ?」
小柴はタオルで額と顎の汗を拭い、
「田野山さんのとこの、お嬢だよ。……仲良くしてるらしいじゃないか」
途中、シューと息を吐いている。
「先生から面倒見るよう頼まれてな」
「愛しの恵美ちゃんに叱られるぜ?」
「そうじゃねえよ。恵美があの子にベッタリなんだ」
「……今日、なんで後ろの追い出しなんか待ったんだよ?」
小柴は垂れ落ちてくる汗に目をしばたかせて、突然話題を変えた。
「何のことだ?」
「向こうで見てたよ。今日の四レース、後ろなんか気にせず、坂下で追い出しゃ、掲示板はあったぜ。……脚が上がったフリしてよ」
「上がってたんだよ。いっぱいだ」
「とぼけるな。おかげで三列目まで全部止まって、オジョー様が差し切りだ。何だ、ありゃ?」
「……」
征嗣は立ち上がり、焼き石にバケツの水を注いだ。熱蒸気が立ち上る音に紛れて舌打ちをする。
「先週だってそうだ。真っ直ぐ追えば、お前が突き抜けた。何で俺の馬に寄せる必要がある? オジョー様がんばれ、逃げ粘れ、初勝利だ、ってんで、だーれも気づいちゃいなかったけどな」
「……」
「おい、杉島」
今日だけでなく先週の話もするな、と征嗣は背中の小柴を呪った。
愛衣の初勝利を翌日のスポーツ紙が一面で伝え、朝の情報番組でもトピックスとして取り上げられていた。ウイナーズサークルで大泣きした愛衣を世間は微笑ましく見守り、やっと勝ったことで、勝てなかったことがむしろ「苦労を乗り越えた」ということで好感をもって捉えられ、競馬を知らなかった者にも顔を名前を憶えさせた。
一仕事終えた気分だった。先週の間に何とかしたかったのは、征嗣自身の事情もあった。今週末に向かって身体も精神も整えていくためには、泣いた本人には悪いが――愛衣は邪魔だった。
かといって調整が早すぎてもいけない。ピークが長すぎると緊張に変わる。その辺りはいつも、恵美が料理と会話で上手い具合に整えてくれるのだが、運悪く不在だった。
(まあ、今日はゆっくりするか)
午前中の間に顔を出すべきところに出し、昼前に自宅に戻ってテレビを見ていた。
「さぁて、続きましては! 競馬界のプリンセスの嬉しい初勝利の話題です!」
遂にお姫様かよ……。競馬のことを忘れたいと思っているのに、月曜昼間の情報番組までもが捩じ込んできたトピックスだったが、あまりの持ち上げように、一視聴者として笑ってしまった。
チャイムが鳴った。インターホンを映すと、お姫様が立っていた。
「……あのっ、こんにちは」
いつもは恵美が出迎えるから、征嗣が出てきて驚いている。
「よう。どうした?」
「いえっ。初めて、勝つことができました」
テレビ以上に笑わされて、
「知ってるよ。同じレースに乗ってたの忘れたか?」
上がれよ、と中へと招き入れた。
「そ、そうじゃなくて。……勝つことができたのは、杉島さんのおかげです。その、色々な人に囲まれて、ちゃんとお礼を言えなかったので」
「いいって、そんなの」
「恵美さんにも、夜メールいただきました。すごく、すっごく嬉しかったです。あ、あの……、恵美さんは?」
「ああ、あいつの婆様が、入院しちまってな。地元に帰らせてる」
「えっ、大丈夫なんですか!?」
コーヒーでも煎れるか、と戸棚から豆を取り出しつつ、
「大丈夫じゃねえかもしれねえけど、もう九十八だぜ? 何があってもおかしくねえよ」
と言った。恵美も親も、親族一同、何年も前から覚悟をしている。哀しみに伏せ入るなんてことにはならない。
(いや……、でも日曜に葬式とかは縁起が悪いな)
征嗣の都合で永らえてくれというのも無理な話だから気にしない――、以外に方法はない――、と納得するしかない。気を取り直して振り返ると、いつの間にかキッチンに入ってきていた愛衣が戸棚を開いていた。いつも恵美の洗い物を手伝っているから、場所を憶えてしまったようだ。