気配-6
トレーニングセンターや競馬場で顔を合わす時に伝えるだけでは理解ができない、と早々に践んだ征嗣は、愛衣を毎週のように夕食に招いた。子供がおらず、しかも女の子を望んでいた恵美は、これまで酩酊した若手騎手やスタッフしかやってこなかったのに、初々しく、かつ有名人の愛衣が来るようになったのを喜んで、いつも腕を奮った。
来客はもちろん、夫に対してもそうだったが、恵美は決して競馬に関して何か言うことはなかった。愛衣が来ると昔に戻ったかのようにはしゃいで、征嗣がいるのに女子トークに花を咲かせていた。愛衣もそれで救われている部分はあっただろう。それでも日に日にしょげていく愛衣を、帰った後に恵美は頻りに心配していた。
五月になっても勝てない愛衣に焦れていた。品数の多い食卓で薄味でも深みのある煮物を啄ばみながらの、前週のレースについての語り口が粗暴になってしまっていたかもしれない。遂に声をあげて泣き出した。
「おい、泣くな。泣いたって誰も――」
ふた回りも年少の女の子を泣かせてしまった狼狽を隠したくて、不機嫌な声音になって咎めようとすると、
「ちょっと、征嗣クン、やめて」
と箸を置いた恵美が抱きしめて頭を撫でた。いつもニコニコしている恵美の睨目は怒気が足らなかったが、眼差しは本気の非難を含んでいた。
「いいんです。私、ヘタクソなんです……」
愛衣は嗚咽に混じらせて言った。そんなことは知っていたし、自分の低能さを告白したところで何の免罪符にもならない。食卓を叩いて立ち上がり、息を吸い込んだが、
「――征嗣クンはどうだったの?」
重ねて恵美が征嗣を遮った。
「あぁ? 憶えちゃいねえよ、そんな昔のこと。でも、俺はすぐ勝ったぜ」
デビューした翌週に勝った。乗っているだけで勝てる馬だった。何もしていないのだから、何も憶えているわけはなかった。
「ちがう」
「は?」
「ふたつ目」
征嗣は黙った。そちらはよく憶えていた。レースを、というより、二勝目を挙げるまでの道のりだ。
「この人もねー」
泣きじゃくる愛衣の髪に唇を押し当て、恵美は半笑いで、「二つ目は……秋まで? ずうっと勝てなかったの。勝てないクセにナンパしてきてさー、オンナでウサ晴らし? 惜しいのはいくらでもあったんだけど、ううん、惜しいのがあったからかな、よけいにいつも機嫌が悪くてさー。何度もデートすっぽかされるし。ヒドいよねー」
「……」
「師匠にね、カミナリ落とされたの。このヘタクソがー、って。それを電話でもメールでもグチグチ、グチグチ……。私じゃなかったら、半年の間に別れてたよ、きっと。……でもね」
恵美は征嗣の方を見ず、まるで赤子をあやすように、ゆっくりと愛衣の上体を揺らした。
「同期の小柴クンがいっぱい勝ってるの見てて、意地でも勝ちたかったんだろうなー、この人。……小柴クンのところ、行ったんだって」
行ったんじゃない。偶然だったんだ。
当時は初勝利なんてものは、所属厩舎の調教師が有力馬主に頼み込んでくれて、馬主たちも鷹揚に勝てる馬、勝てるメンバーを用意してくれたものだった。いわばデビューのご祝儀だ。
しかしそれからは違った。誰も手を抜いてくれない。勝てそうだと思っていても、奇襲戦法で勝利をさらわれたり、次は勝てると思っていたら営業活動で騎乗を奪われたり。正々堂々と来てくれればまだいい。中にはレース中にわざとぶつけたり、鞭で大腿や手の甲を狙ってくるなど、全く容赦がなかった。
元騎手で調教師である父親を持つ小柴は、順調に勝ち星を重ねていた。デビューした時から同期でダントツの小柴に集まる馬は、どれも自分よりも上質の馬に見えた。公正を是とする競馬なのに、まったく不公平だという憤りを感じていた。
飲みに行った時に頼んだ調教師が乗せてくれると言っている、お礼をしにいけ、と師匠に言われて、他厩舎に行くと小柴に出遭した。学校時代は厳しい修練を共にしている仲間意識でじゃれあっていたのに、数ヶ月が征嗣の挨拶をどこかしらぎこちなく変えていた。しかも、先生は出かけている、俺も待っている、と厩舎の前で二人で待つ羽目になった。お互いの近況を伝えあっていると、やはり格差が明るみになる気がした。
「……どうやったら勝てるのかな?」
どうせ弾まぬ会話なら、と情けなさと胸苦しさごとぶつけてみた。
「言うわけないだろ?」
俺にもわからないよ、とでも言うなら、隠すなよ、軽く小突いたのに。二桁勝ち星を積んでいる小柴も、まだたった一つの自分への容赦がなかった。先輩騎手に訊いた時と扱いが同じだった。
征嗣は姿勢を正し、頭を深く下げた。地面の石ころ凝視して、奥歯から血の味を感じつつ屈辱に耐えた。
「……ソノアポヤンドに乗せてもらうんでしょ?」