気配-13
浮いていると気持ちいいと愛衣は言ったが、慣性によって前へ投げ出されるのは不気味な感覚だった。肩と側頭部を同時に打ち、天地が目まぐるしく回った。瞬間的に、手首は折れたとわかった。空、芝、馬の脚、スタンド、とフラッシュカットされていく映像の中に、小柴の顔を見つけた気がして、その名を呼ぶために首の痛みをこらえて身を起こそうとしたところで、脇腹に衝撃が走った。身体の左半分を全部持って行かれたかと思うほどの苛烈な痛みに、再び地面をのたうっていると、その上を馬の後脚が弾ねた。
音が戻ると、場内アナウンサーが瀬田の名前を呼んでいた。
６
井野を殴る前に左の腰がシクシクと疼いて、思いとどまらせた。
「……。そんないいもんじゃなかったよ。ただの田舎娘だったぜ」
――落馬した日以降、小柴と話したのは二回だけだった。
正確には、一回は話してもいない。声を聞いただけだった。
無事に腎臓摘出手術は終わったが、頚椎損傷により暫く寝たきりとなった。半月経ってようやくカーテンの向こうに小柴の声が聞こえたが、予め意向を聞いていた恵美が会わない旨を伝えた。
「本当に……、申し訳ない。ヘタクソで」
「ううん、競馬だもんね。仕方ないよね。……せっかく来てもらったのに、ごめんね小柴クン」
何故、恵美が赦しを与えるのか腹立たしかった。
五着で入線した小柴は三週間の騎乗停止となった。一番人気が落馬しているのに甘いのではないか、という所感を抱く者が多く、この処分は物議を醸した。人気と裁定は原則として関係ないのであるが、それを抜きにしても征嗣ほか一頭が落馬したのだからレースへの影響は重大だ。となると小柴の走行が悪質だと判断される場合に、失格の措置が取られる。
前で起こったアクシデントを、瀬田があまりにも華麗に回避して差し切ったものだから、判定する者の目線に影響が出たのかもしれない。悪質かと言われれば、間違いなく悪質だった。小柴は不慮にヨレたのではない。ヨレているように見えるよう、馬を導いたのだ。失格、降着になっても構わなかっただろう。小柴にとっては一着以外には全く意味がなかったのだ。
そして征嗣にとっても、裁定は意味がなかった。小柴が失格になろうが、降着になろうが、競争中止となった征嗣が一着になるわけではないからだ。落馬事故で命を落とした騎手は一人や二人ではない。家族を見殺しにしてでも勝ちたかった小柴は、勝てないとわかった瞬間、勝たんとした自分への殺意を抱いたのだ。
四十を超えてから、年単位が予想されるリハビリ生活に叩き込まれれば、当然引退という文字が頭をよぎった。絶対に支えるからね、頑張ろうね、と恵美は言ったが、征嗣を突き動かしたのは妻の献身ではなかった。
すぐに愛衣は見舞いに来た。
世間の目を避けてやって来て、ナースの目も盗み布団の中で病衣へ手を滑り込ませ、男茎を握った愛衣は、そこも柔軟な手首を卑猥に動かして週末のレース展開を問うた。翌週も、その次の週も、恵美の不在を問うメールが入り、病室へやってくる。乗れないだけに、むしろ冷徹にレースを見通せたし、愛衣は征嗣の作戦の全てを鮮やかに実現してみせた。
整ったルックスに加え、新人らしからぬ勝負センスを開眼させた、と愛衣はたちまち持て囃され、メディアの露出も増えて「売れっ子」となった。その過程で、勝った時の記憶と、周囲からのプレッシャーがそうさせるのか、密戯はエスカレートしていき、果てはカーテンを引いたベッドの上で声を殺しつつ、大胆に躍動するようになった。
レースの中継映像で、スタートからゴールまで愛衣が行う騎手としての挙動は、どれもすべて惚れ惚れするものだ。騎手はならば誰もが渇求するだろう肢体を、惜しげもなくＭ字で開いて晒し、肩につかまって上下させると、花園が粘膜を捲りあげて男茎を呑み込み、中で情熱的に搾りあげられた。そのさなかにレース展開を熱っぽく問われれば、征嗣の予測は著しく冴え渡る。
形代たる愛衣との肉欲だけが、征嗣を競馬の世界にとどまらせたわけではない。
アイドルジョッキーのＧⅠ初騎乗として相応しいと選ばれたダービーで、向こう何年も乗れないと泣きベソをかいた筈の小柴が、たった二年後に圧倒的一番人気となった時、舞台が整ったと思った。渾身の読みと作戦を、何度も身体を繋げて愛衣に染み込ませた。作戦は百発百中で成功していたわけではなく、勝てたのは三割程度だった。だから、まさか本人は勝てるとは思っていなかったようだが、征嗣は、この一レースだけは、愛衣ならば必ず勝てると確信していたし、事実そうなった。
しかし、ＧⅠを勝ったことで、愛衣にかかる期待は更に大きく、等身大の彼女が負えるものではなくなってしまった。ＧⅠ初騎乗が初制覇、しかもダービー。そして女性騎手初のＧⅠジョッキー。