プロローグ-1
馬主にしても騎手にしても、馬を出走させるからにはその馬に勝たせたい。勝たせなければ損である。しかもいくら勝たせたいと焦つても、競走馬の数は多いのだから思ふやうには勝たせられない。
(菊池寛「日本競馬読本」)
前を向くと右手から上がる歓声が更に大きくなった。同じ景色を見てきたが、今日に限ってはまるで熱量が違った。
「どけよ、おいっ!」
奥田の罵声――ペースアップについていけなくなった先行の壁を割ろうとして行き道を塞がれたか。コーナーに入る前にイメージした通りの展開だ。仕掛けるやグイッとハミを取り、頭を沈めてくれた。多少距離損をしてでも早めに一番外を取っておいて正解だった。
行く手には何もなかった。この季節の直線は、よく「緑の絨毯」と喩えられるが、本当に、被毛の上を滑っているかのようだった。
(これ……、結構いいところまでいけるかも)
坂の手前で横並びになった五、六頭をあっさりと躱せた時、愛衣はそんな予感を色濃くした。
左斜め前、先行していた一番人気は差し込んでくるだろう奥田を待って、追うタイミングを計っている。しかし愛衣と同じく最終コーナーを巧く立ち回れた馬が内外から並びかけたので、人気を背負っている小柴の後姿が仕方なく追い始めた。
そもそも奥田の馬は、仕掛けどころから行き脚が鈍かった。危惧されていた以上に疲労が溜まっていたのだろう。だが小柴は奥田のピンチに気づいていない。老練なベテラン騎手には珍しいミスだった。それでも、二頭に挟まれる形で叩き合うと、やはり地力が違うといわんばかりに瞬間的に加速して、小柴は坂を登りきる前に二馬身ほどの差をつけていった。
ただ小柴は、ライバル馬が早々に脱落したことだけではなく、躱した馬体ぶん離れたところから迫っている愛衣の存在にも気づいていなかった。後方から誰も来ていないことを一瞥で確認すると、愛衣は右鞭を揮って徐々に左、左へと導いていった。変わらず視界は良好だ。
(頑張って!)
最後のハロン棒を過ぎた。小柴は決して手を抜いたわけではないだろうが、周囲に誰もいなくなった馬の方が気を抜いていた。
近くなった蹄音に気づいた小柴が再度の加速を叱咤し、愛衣が押してこれまで発揮されたことのない一段上のギアが入ったのが、ほぼ同時だった。前評判では大きな差があると思われていた二頭が並んだ。場内アナウンサーが自分の名を呼んでいる。愛衣は跨った股間を、焔立つ闘志に炙られていた。
(うっそ……)
信じられなかったが、真偽をあらためている暇はなかった。片手から聞こえていた観衆の声は、全身を包んでくる絶叫に変わっていた。声援はない。驚愕、悲鳴、怒号こもごもが混ざり合って充満している大気の中心をつんざくような、とてつもない快美感に、愛衣の身体は凝らず、むしろ滑らかに疾走のリズムを刻んでいた。
「ちっきしょっ、がっ!」
これだけうるさいのに、決勝線を越えるところで、小柴の呻きが聞こえた。横を向くと、自分のほうが前に出ていた。追うのをやめて反対側を見た。誰もいない――
一コーナーへと流れ込んで行くころ、俯いたまま馬に任せて走らせていた小柴が腕を差し伸ばしてくる。泥と汗にまみれた手がハイタッチで触れた瞬間、彼の中で滾っている激憤が伝わってきた。僅かに怯んだ愛衣だったが、とりあえず安全に止めなければならなかった。コーナーを大きく周りつつ手綱を絞ると、スピードが落ち始める。
(勝っちゃった……)
なみ脚まで落ちて息をつき、膝を折り、腰を馬体に下ろしてようやく、その実感が湧いた。
「――おめでとさん」
「あ……ありがとう、ございます……」
後方でレースを終えた先輩騎手の川井が馬を寄せて声をかけてきても、肩で息をしながら会釈するしかできなかった。首に怒張を浮き立たせつつも、川井の馬に合わせて立ち止まった愛馬よりも鞍上のほうが落ち着けていなかった。
「てか狙ってたのかよ、最後。タイミング」
川井は早々に帰路についている小柴の背中を顎で指し、「小柴さん、パドックからガチガチだったもんな」
「い、いえ……。その、単にむ、無我夢中で……」
息を切らした愛衣の答えに、川井はやや間を置いたあと、失笑混じりに肩をすくめた。
「あらら、そんなもん? ……小柴さんの悲願は今年もダメだったな。よりによってお前なんかに打ち砕かれるとはなぁ」
年齢的にも今年が最後のチャンスかもしれない。記者だけではなく、小柴本人も語っていた。十八回……、いや十九回目の挑戦だったか。大レースで人気をしても、他馬の関係者やファンに気を使って、決して大きなことを言ってこなかった小柴が、レース前の会見では苦渋すら感じ取れる面持ちで「何とかしたい」と言っていた。
「そんな……」