第一章 脅迫されたOL-5
一方的に電話を切られ、保彦は恩賜公園に一人残された。
だが赤の他人とはいえ人と話したことで、先ほどよりも少しだけ気分が落ち着いていた。
まず、なぜこれまで過ごしてきた体を抜けて、この冴えない男に宿ることになったのか? これは理由も理屈も全く分からない。得体の知れない恐怖を感じている。
次に、この男は一体誰なのか?
これは多少明らかになった。心を患って休職しているサラリーマンだ。自分との関連性は見いだせないが、まるで何者か知れない醜男に憑依しているよりも、幾分恐怖心が和ぐ。
上野から日比谷線に乗って北千住まで行き、そこから東武線に乗り換えていくつかの駅を過ぎると、目的の駅を告げるアナウンスが聞こえた。初めて降りる駅だった。
恩賜公園でずっと座っていても仕方がなかった。行動を起こそう。夢なら夢で、途中で醒めてくれればいい。
仮定をしてみた。自分がこの男の肉体に宿ってしまったのならば、この男の魂はどこに行ってしまったのか?
最も自然に考えるのならば、保彦の肉体に宿っているに違いなかった。道角でぶつかったわけでも、――こんな男とは絶対御免こうむりたいが――、二人で抱き合って階段を転げ落ちたわけでもない。だがマンガやドラマでよくあるように、我々の肉体と魂が入れ替わってしまったと捉えるのが一番しっくりとくる。
となると、もう一人の被害者と合流するのが一番だ。彼は今どこにいるのだろう?
一つラッキーだったことがある。この男の使っているスマホは指紋認証機能が搭載されていた。メーカーもまさか魂が入れ替わってしまうようなケースは想定していなかったから、ボタンに親指を当てると、難なくセキュリティを突破してホーム画面へ入ることができた。
自分の携帯番号は憶えている。かけてみたが呼び出し音が続いた。根気よく待っていたが、やがて不通の意を伝える機械的なアナウンスが流れてきた。
三回繰り返したが相手は出なかった。当然保彦はこんな男の電話番号など登録していないから、自分のスマホの画面には番号だけが表示されていることだろう。それを見ても自分の電話番号だと分からないのか?
相手は相手で保彦の肉体に宿ってしまったことに惑乱しているだろうから、怖くて出られないのかもしれない、と好意的に解釈してやりたかったが、
(にしても、勇気出して出ろよ、オッサン)
という思いは抑えられなかった。
保彦は上野駅へ向かった。山手線で池袋まで行き、西武線に乗り換えて自宅へ向かうつもりだった。
だが複数の線路が道路を跨ぐ高架まで来たところで、ふと思った。自分の持ち物について。
保彦のスマホは指紋認証機能が付いておらず、自分にしか分からないロックコードを設定している。この男の魂では解除することができない。ということは、携帯の中には保彦の住所を示す情報が入っているが、男は見ることはできない。
財布。中には学生証、ポイントカード、銀行のキャッシュカード、クレジットカード等入っているが、いずれも保彦の氏名が記されている程度だ。鞄の中は筆記用具とノート、業界研究用に買った本。音楽を聞くためのヘッドフォン、ハンカチ――、あと何か入っていた気もするが、それくらいだ。
つまり、男には保彦の自宅はわからない。
ならば男が取る行動は一つだろう。
ふと見ると「駅周辺禁煙」の文字と、所定の喫煙場所を示す看板が見えた。スーツのポケットを探ったがタバコが無い。吸わないのだろう。「たばこ」の文字を掲げたコンビニに入り、外国人の店員に普段吸っている銘柄を告げた。レジ横に陳列されているライターも手に取る。
(げ……)
合皮が色褪せて角が剥げた汚らしい財布に札は入っておらず、小銭で辛うじて支払うことができた。
タバコを持って大きな歩道橋に昇ると、看板に書いてあった通りの場所に喫煙所が見えた。フイルムを剥き、咥えた一本に火をつけると、肺に煙を入れた瞬間に刺すような痛みを感じて思い切り咽せた。味が物凄く濃く感じる。これで吸い続けりゃ、だんだん慣れてくるんだよなぁ、と喫煙者になっていった過程を思い出し、そんな肺痛を伴ってもタバコを吸うことで気分が落ち着いて冷静になった保彦は、魂が入れ替わっても肉体的な感覚はこの男のものとして感じるのだな、ということに気づいた。収穫だ。こうやって一つ一つ情報を集めていけばいい。
目に漂ってくる煙に瞼を細めながら、もう一度財布を取り出した。免許が見つかる。
土橋哲郎。それが自分の名のようだ。
(げっ、マジ?)
生年月日から逆算して、四十六歳であることが分かった。鏡で見た風体では下手をするともっと年長に見える。やはりこの、禿げているのに未練がましく髪を伸ばしているヘアスタイルが歳嵩な印象を与えるのだ。
免許に記載されている住所をマップアプリに打ち込むと容易く表示された。土橋が現れるならば、きっとこっちだ。