第一章 脅迫されたOL-3
これもおかしい……。
しかし改札が目の前まで来ていて、次は自分の番だった。とっさに見憶えのないパスケースを当てると青いランプが消えてつつがなく通過できた。
デジタルサイネージが埋め込まれた柱が並ぶ広場に出る。
どこなんだここは。
人の流れを抜けて、中洲のようにスペースができている柱の側でやっと立ち止まることができた。
改めて周囲を見回した。頭上の案内表示には、右に行くとJR、銀座線、真っ直ぐ行くと京成線と記されていた。背後を見ると灰色の丸に囲まれたH。日比谷線に乗っていた、というわけだ。
まるでそんなつもりはなかった。日比谷線には用事はない。
周囲の景色を一つ一つ注意深く見ていくと、壁に貼られたポスターの中で笹を齧るパンダと目が合った。
(なんで上野なんかにいるんだ?)
朝起きて身繕いをし、自宅を出て、最寄駅から西武線に乗った。目指したのは新宿だ。
十時から第一希望の企業の最終面接がある。電車の事故遅延とか、何があるか分からないから念のため早めに現地に行き、近くにあるコーヒーショップで面接対策の最終確認をしようと考えていた。
確かに西武線に乗った記憶がある。身動きができないほど混んだ車内で、人と人に圧迫される中に生じた隙間でスマホを持ち、就活SNSを見ていた。
どこかの駅に止まり、周りの乗客が大量に降りていく流れに巻き込まれて、あれ、もう新宿に着いたのかな、と押し出されるように降りたら……上野だった。
まったくわけが分からない。
新宿は山手線を挟んで対面だし、西武線から乗り入れの地下鉄をどう乗り間違えたって上野に到達するはずがない。
状況を整理しようと行動を振り返ったが、余計に混乱するばかりだった。
保彦はパンツのポケットを探り、スマホを取り出した。そして驚いた。手にしたのはOSの異なる機種だった。それだけではない。身に憶えのない袖口が見えた。就職活動用に買った濃紺のスーツではない、袖口がささくれたグレーのスーツだった。覗いた白のワイシャツも黒ずんでいる。そして節膨れて爪色が濁った指。
就活マニュアルの通り、袖口の清潔さには注意を払ってきたつもりだったが、何か落度があったのかもしれない。しかし指は? 指の形に見憶えが無いのはどういうことだ?
慌てて顔に手をやった。指先にも頬にも感触があるが、指腹はいつもより乾いていて、いっぽうの顔肌は妙にヌメっている。
夢? しかしウトウトと頭の中が暈ける感覚とは違って、周囲を通り過ぎていく雑踏が瞭然としすぎている。
呼吸が荒くなってきた。
ふとブルーとピンクの男女を象形したマークと、壁にぽっかり穴を開けている入口が見えた。排泄するつもりはないから、行列を作っているサラリーマンたちの傍らを通り、手洗い場に立った。
叫び声を上げる余裕もなかった。
用を済まして手を洗っている者の肩越しに見た鏡には、見ず知らずの男が映っていた。痛いほど脈打った鼓動に顔を歪めると、鏡の中の彼の表情も変わる。改めて鼻先や頬に手をやると、鏡の中も同じように動く。
「おら、終わったんならどけよっ」
洗面台の前で鏡ばかり眺めていると、手を洗おうとする中年サラリーマンが不機嫌な声でぶつかってきて、保彦は呆然としたままよろめいた。何とか足を踏ん張って、濡れて汚い床に倒れることは免れたが、肩を強かにタイル壁に打った。
「……大丈夫ですか?」
個室が空くのを待つ列に並んでいたサラリーマンが保彦の様子を心配して、「トイレを出て左に行くと駅員さんの事務室がありますよ」
「あ、いや……」
そう答えた自分の声も、全く馴染みのないものだった。保彦は更に追い込まれて、親切なサラリーマン氏に礼も言えず、ふらふらとトイレを出て行った。
かなり薄くなっているのに往生際悪く長く伸ばした髪を頭に貼りつけ、シミとフキデモノの痕が遠目でもわかる赤紫色の肌、腫れぼったく垂れた瞼、団子鼻、皮がめくれている厚い唇と無精髭。鏡に映った男はあまりにも醜い男だった。
誰だあいつは。なんなんだこれは。
これだけ精神的ショックを受ければ、夢ならば疾に覚めてもおかしくない。しかし一向にその時は訪れない。
どこともなく歩みを進め、京成上野駅の近くまでやってきていた。恩賜公園への入口が見える。座りたい。保彦は長い階段を登り始めた。
平日の朝、西郷隆盛の周辺は早くに起きて散歩や体操をしてから歓談を楽しむ老人たちでベンチが塞がれていた。奥まで進み、漸く空いたベンチを見つけた保彦は崩れるように座った。背後を走っていくJR線の車音を聞きながら、身を屈めて顔を覆う。
どうすればいい?
暫く項垂れていた保彦はスマホを取り出して時計を見た。もうすぐ九時だ。急いで新宿に向かえばまだ間に合う。一瞬そう思ったが、この姿で面接会場に行くのか、と自分自身が苦言を呈してきた。
そんなこと言ったってどうしろって言うんだ?
いやいや、面接に行くことで何か事態が進展するかもしれない。
そうは言っても、およそ就活生には見えぬ男が闖入したら、忽ち追い出されるだけなのではないのか?
問答を続けていると、頭が破裂しそうだった。