夜這いする、の巻-1
桜の便りが届きはじめたある日のこと、ぼくの住んでいる家のとなりのアパートに、とてもきれいな女の人が引っ越してきた。
とにかく色白で細身のその人は、ここ数日のあいだにいろんな荷物を運び込んでいたのだけれど、どう見積もっても二人分の量ではない。
どうやらこの土地で一人暮らしをはじめるらしい、とぼくは勝手に想像した。
学生さんなのか会社勤めをしている人なのかはわからない。
ただ、ぼくの興味が彼女に向いたことだけは紛れもない事実である。
できることなら親しい仲になりたい、なんて思うのは都合の良い哀れな考えだろうか。
いやいや、きっかけさえあれば容易に叶うかもしれない。
いずれにせよ、ぼくらはまだ挨拶すら交わしちゃいない、いわゆる赤の他人なのだ。
まずはそこからはじめるとしよう。
それにつけても可愛い人だな、なんて思いつつ我が家の庭先でのろけていると、道路の向こうから歩いてくる彼女の姿が見えた。
水色のシャツに花柄のスカートという、うららかな春らしい装いである。
やがてぼくの存在に気付いた彼女はにっこりと微笑みをよこして、たなびく風に香水の匂いを残したまま通り過ぎていった。
言葉こそなかったけれど、あの笑顔はぼくに対するアプローチだったに違いない。
言うまでもなく、ぼくはたちまち恋に落ちた。
文字通り春が来たのだ。
せめて名前だけでも知りたいと思うのだけれど、それを突き止める術(すべ)がわからず、悶々とする日々がいくつも過ぎていった。
だからといって、ぼくらの関係がまったく進展しなかったわけでもない。
彼女はいつしか挨拶をくれるようになっていたのだ。
「おはよう」
彼女のさり気ないその一言を受け取るだけで、まるで活力を得たような気分になれた。
まったくもってわかりやすい性格のぼくである。
時に挨拶はあたりまえの日常に彩りを添えてくれる、絵の具の役割を果たした。
彼女の紡いだ声のすべてがポエムであり、メッセージでもあるように思えた。
そんなこんなですっかり顔見知りになり、ぼくは益々その人に夢中になっていくのである。
この際、彼女と運命共同体になったってかまわない、とさえ思えてくるのだから、病状はかなり悪化していると考えたほうがよさそうだ。