前章(二)-1
暗闇の中にあった街が白み出し、夜が明けた事が告げられて行く。空は徐々に色を帯びていき、やがて、この街の象徴でも有る硬(ぼた)山が射し込む陽光の全てを吸い尽くすが如く、黒々とした存在を際立たせた。
此の街は、凡常の街の夜明けとは些か異なっている。喩えを一つ挙げるなら、坑場に隣接して建つ煙突。街の者は俗称として“お化け煙突”と呼ぶ。その亭々たる頭のてっぺんから、もうもうと黒煙を吐き出す姿の不気味さがひとつ。その他にも、巨大な巻き上げ機の唸り声や、運搬機にトロッコの作動音も、時を置かずに鳴り続ける様だ。
即ち、街一帯は四六時中、産炭に伴う稼働音と臭気に覆い尽されており、静寂という代物とは無縁なのだ。
特に、風が強い日は、時折、黒煙が下界へと流れ込み、目や喉が痛くなる。「この街は異常だ」と、誰もが心に疑念を抱いていた。が、小作の頃と比較にならない贅沢な暮らしが出来るのは、この街、即ち、伝衛門のおかげなのだと解っているから、誰もが口を閉ざしている。一度、金の有る生活を知ると、人間はもう、昔の貧しさに戻る事は出来ないのだ。
「坊っちゃま!」
耳を劈(つんざ)く様な疳高(かんだか)い声が、伝一郎の傍で鳴った。それは、未だ夢の狭間に有った彼を、強引に現実へと覚醒させた。
「早く起きて下さい!もう、とっくに朝食の時間を過ぎてるんですよ」
「うっ……んんっ」
「早くして頂かないと、私も次の仕事が待ってるんですっ、坊っちゃま!」
朦朧とする意識の中で、伝一郎の胸中に憤りが涌き上がる──。此処に帰るに至ってから五年目だが、こんな仕打ちは初めてだ、と。
(ああ、そうか……今年から、新しい女給だったな)
それ迄は、長旅の帰省だからと女給逹は一応に気を遣かい、自由な寝起きが許されたのだが、この新しい女給の夕子には“慮り”等という気遣いはないらしく、それ故か、伝一郎への扱いに遠慮が無い。
「こんな起こされ方……学校でも受けた事が無いよ」
未だ、眠気眼の伝一郎。自分に対する酷い扱い方に、怒りが込み上げる。一言言ってやろうと文句を放ってみたが、
「何を仰有ってるんですか!坊っちゃまには、親方様の御世継ぎと言う大事な使命が待っているんですよ」
夕子は、怯むどころか先程にも増して遠慮の無い、強い口調で叱り付けて来る始末。その言動から察するに、執事の香山か上女給のどちらか、はたまた両方から様々な“密命”でも帯びているのではないかと、伝一郎が勘繰ってしまう程だ。
「わかったよ。そう煩く言うなよ。今、起きるから」
そうは言っても、新米女給にこれ以上、文句を言うのも酷という物。直に聞いた限りでは、一番年若い夕子は、日頃から熟練の“姉様方”から厳しく仕込まれており、そういう意味で推し量れば、唯、申し付かった事への忠義立てなのかも知れない。
(しかし、朝から気分を害したのは事実だし……)
とは言え、此のまま懐柔されてしまうのも癪に障る──。そう思った伝一郎は、一計を案じた。
「やっぱり駄目だ……眠くて堪らない」
伝一郎はそう言うと、起こそうとした上体の力を抜いて倒れ込んで見せた。その様子を端から見ていた夕子は、途端にベッドの傍へと駆け寄って来る。
「駄目ですって!」
屈み込み、伸ばした手が伝一郎の肩に触れようとしたその時、夕子は背中に凄い力を感じ、押される様な形でベッドに倒れ込んでしまった。