前章(二)-9
(何か……何かが、私の身体で起っている)
駆け抜けた“快感”を、もう一度確かめたいと渇望する自分に畏怖し、夕子は、慌てて身形を整えると、御不浄を飛び出して行った。
そして、“今の出来事全て”を打ち消す様に、何時にも増して仕事にのめり込んだのだ。
二階へと一段々登りながら、夕子は思う。
(あの所為で、自分の身体はおかしく為ってしまった)
その元凶とも取れる場所へ再び出向く事に、心は怯え、身は竦んでいる。なのに、心の何処かで“望んでいる”自分が混在する。
「あの……坊っちゃま」
夕子は覚悟を決めて、扉の前で声を掛けた。しかし、伝一郎からの返事は無い。
「坊っちゃま!いらっしゃるんですか」
声を張り、二度、三度と呼び掛けるが、やはり返事は来なかった。
(変だわ。出掛けたのなら、私達にも伝わって来る筈だし……)
夕子は、次第に心配を募らせる。「もしや、中で倒れているのでは」と、頭に浮かべた。
そうなると、頭の中は、その事ばかりに心奪われ、居ても立っても居られない。思わず、扉に手を掛け開けてていた。
「坊っちゃま!」
中へ踏み込んだ夕子の目に、ベッドに倒れ込む伝一郎の姿が映った。
夕子の、頭の中は真っ白になり、気付けば血相を変えて、脱兎の如く駆け寄っていた。
すると、伝一郎の目が、徐に開いたではないか。
「あれ……どうしたの?夕子」
「ど、どうしたのって……お呼びしても御返事が……無くて」
答える夕子は声を詰まらせ、涙ぐんでいる。此処で漸く、伝一郎は事の顛末を把握した。
「昨夜は、寝るのが遅くなってね。昼食を摂ったら、何だか眠くなってしまって。勘違いさせたみたいだね」
単なる勘違いと言う結果は、押し並べて“勘違いした側”が怒り出し、その矛先を“勘違いさせた側”へと向け勝ちなのだが、夕子は違っていた。
「ほ、本当に……わ、私……心配したんですよ」
夕子は、代わりに涙で訴えた。自分の為に涙する姿。伝一郎は、母であり最愛の女性でも有る菊代の面影を重ねていた。
「わ、悪かったよ、夕子。ほらっ、涙を拭いて」
「は、はい……」
伝一郎は、ズボンのポケットからハンケチを取り出し、差し出した。
夕子は、受け取ると言葉通りに涙を拭き、そのまま返そうとして手を止めた。
「あのう……これ、洗って御返し致したいのですが」
「いや。返さなくて良いよ。夕子が持ってて」
「そんな、こんな高価な物、頂けません」
夕子は、“善意の贈り物”に拒否を表した。が、伝一郎も、引き下がろうとしない。