前章(二)-6
「少し蒸すけど、おかげで煤(すす)臭さは随分と消えるんだな」
これ迄、滞在中は、此処に引き隠って過ごしていた伝一郎にとって、天気等、気にした事も無かったが、今年は少々、事情が違っていた。
(天気が好ければ、夕子と街を散策するんだけどな)
表向きは、伝衛門への反発から彼の“所有物”である街に出歩くのを避けて来たのだが、その実、様々な施設には強い関心があった。
別(わ)けても、娯楽施設としての遊技場や芝居小屋、それと喫茶店等は、寄宿舎での生活を強いられる伝一郎にとって無縁な施設であり、是非とも見聞したいものだと焦がれた位である。
唯、此れ迄だと一人での探索を余儀なくされ、街に不案内な自分だけでは愉しめそうに無いと諦めていたが、その想いは冷める事無く募るばかりだった。
そんな折に夕子が現れた。
自分と同年代の彼女を案内役として連れて行けば、ずっと愉しめるだろうし、何より夕子との関係も、更に深められる筈だ──。そう思う伝一郎の目は、輝いていた。
「これは、是非とも香山さんに許可を貰わないと……!」
そう思った時、伝一郎の脳裡に、昨夜の忌まわしい光景が甦った。
(すっかり忘れてた……)
義理とは言え、母親が主に仕える使用人と不義密通を働いていたとは晴天の霹靂(へきれき)で有り、強い衝戟(しょうげき)を伝一郎は受けた。
茫然自失とした心境の中で聞こえる、痴れ者同士の目交(まぐ)わいの声は、伝一郎の中に憤怒を呼んだ。
(父さまは、昼夜、関係無く働き回っていると言うのに、此の女は……)
──実の息子を亡くした事を嘆き続けるだけなら、未だ、許される。だが、その悲しみを下男に抱かれる事で、一時でも忘れ去ろう等とは、愚者の極みだ!
義母と執事が、此のまま不義を繰り返せば、何れ、禍を招き寄せるのは必然で、強いては父である伝衛門の足許を掬いかねない。
(だとしたら、誰にも知られる事無く、此の一件を片付ける必要が有るな……)
そこから伝一郎は、ベッドの中で一人、解決方法について思いを巡らせた。
その為、眠りに就いたのは既に空が白み始めた頃で、朝食の時間に起きられず、夕子とのやり取りに至ってしまった訳である。
(しかし、父さまには、それとなく話す必要が有るな……)
自分の胸裡に有る思いを鑑みて、伝一郎は、ふと、何とも不可解な気分となった。此れ迄なら、昨夜の事は“此の家での不手際”で有り、自分は与り(あずかり)知らぬ事だと知らん顔も出来ただろう。それが今や、父の行く末を案じるばかりか、自ら事を収めねばと言う結論に至った心の移り変わりに、強い戸惑いを感じた。
伝一郎は、此の五年間、父である伝衛門の生き様を、悉(つぶさ)に見詰めて来た。殆ど、時を同じくする事も、言葉を交わす事も無く、使用人に聞かされる形で、その在り様を知って来た。
それらを結論付けると、彼は常に、自分の産炭場と炭鉱夫、そして此の街の事を第一に考え、更なる発展を目指して尽力を傾ける人物だと言う思いが一つ。
そして、もう一つが、家族への想いは殊の外(ことのほか)希薄だと言う事で、伝一郎が知る限り、家族を顧みる等一度として無く、屋敷の事は全て執事である香山に任せ切りで、自身は無関心を貫いている。
その一つが、貴子の件だ。
実の子を亡くした母親の悲しみは喩える迄も無く、胸を抉られる程の痛みを心に受けるのだと聞き及ぶ。現に、貴子は今でも、亡き息子への後悔の念で、涙に暮れている。
貴子の息子、貴喜は、彼女の不注意によって乗り合い馬車に轢かれて亡くなった。故に彼女は、死んで息子に詫びようと、何度も、自ら命を絶とうとした。
しかし、幸いにも発見が早く、大事には至らなかったが、以降は一人で屋敷から出る事は許されず、常に使用人の監視が付いて回る、言わば“幽閉”状態の中で、生きる事を強いられていた。
そんな、自分の女房が打ち拉がれている状況でも、伝衛門は必要な措置を講じるのみで、貴子の傍に立つ事も、慰めの言葉を掛ける事も無かったそうだ。
そう考えると、貴子が不幸な身の上の様に思えるが、
(──だからと言って、それが、不義を働く免罪符になる訳が無い)
伝一郎は、巌然とした面持ちで窓の向こうに目を移す。曇は重みを更に増し、何時の間にか雨足を強めていた。