前章(二)-4
「んっ……はぁ……あっ」
漏れて来る吐息が、甘さを含んで来た。固く閉じていた口唇は、意識の解放と共に蕾が開くが如く、僅かに隙が空いた──。頃合いだと言う事を、伝一郎が見逃す筈も無い。
舌を唇から、夕子の開いた口唇の中へと素早くこじ入れた。
「……!」
いきなり、異物のぬるりとした感触が口の中で這い出した事は、恍惚感に浸っていた夕子の意識を一転させ、おぞましさを一気に広げた。
ベッドから、跳ねる様に起き上がる夕子。口許を手で被い、眉間を寄せて伝一郎を睨め付ける瞳には、涙が滲んでいた。
「こ、こんな事……するって言わ無かったわ」
涙ながらに、訴える声は震えている。そんな夕子を目前にした伝一郎は、笑みを浮かべた顔で彼女にこう言った。
「申し訳ない。つい、調子に乗り過ぎたみたいだ」
伝一郎はベッドから立ち上がって夕子と相対すると、姿勢を正して深く頭を垂れた。
主の子息が女給に頭を下げる──。その紳士然とした態度に夕子は一瞬、胸を打たれ、不快感に満ちていた心を幾らか柔和に変えた。
「判りました。じゃあ、下に参りましょう」
「でも、誓って揶揄(からか)った訳では無いよ。あんな事をしたのは、君の事が、とても気に入ったからなんだ」
「坊っちゃま……」
異性から突然の、初めての告白。況してや相手は主の子息である。夕子は唯、舞い上がってしまい、どうすれば良いか分らない。
そんな様子を見て、伝一郎は更に言葉を続けた。
「だからさ。此れっきりなんて言わないで毎朝、接吻で起こしてくれよ」
「ええっ?」
夕子は戸惑った。「毎朝、あれをやらされるのか」と思うと、さすがに二の足を踏みたい気分だ。
しかし、何れ後継者となる伝一郎の告白は勿論の事、接吻で初めて知った“未知なる快感”を、もっと知り得たいとする若者らしい欲求も持ち得ており、夕子は二つの心で揺れていた。
その姿を、伝一郎はじっと刮目する。そこに居るのは、既に“純真無垢”な女給係で無く、打算的な女の顔を見せていたからだ。
「わ、分かりました。でも……最後の……舌を入れるのは辞めて下さいよ」
「ああ、約束するよ」
約束を交わした夕子は、「先に、お食事の準備をしておきます」と、前置きして部屋の前で一礼すると、そそくさと下に降りて行った。
夕子の消えた辺りを、伝一郎は見つめている。笑ってはいるが、その嘲る様な目に、先程迄の優しさは無い。
──やはり、子供故の綺麗事だったか。ちょっと恐怖と優しさを与えてやったら、簡単に靡いてしまった。
「いずれ、僕の物にしてやる……」
伝一郎は、薄く笑った。
少年の無邪気な残酷さを醸した笑顔は、やがて、勝ち気で聡明な少女が自らの毒牙に掛かり、凌辱される様を思い浮かべていた。