前章(二)-3
「そうだな……じゃあ、西洋人みたいに起こしてよ」
「えっ?……」
「西洋ではさ、朝の挨拶に接吻をするんだ」
接吻と聞いて、夕子は自分が耳まで紅くなるのが判った。
無論、それが何を意味するかは知ってはいるが、彼女の中で接吻は、夫婦や恋仲の者同士がする行為だと認識していて、それを強要する伝一郎が、何を考えてるのかさっぱり解らない。
「で、でも、どうやって……知らないし……何か他の」
「簡単だよ。僕の唇と、君の唇を重ね合わせるんだ」
息が触れ合う程の傍に、伝一郎の唇が有る──。そう意識した途端、これ迄体験した事が無い位、夕子の鼓動は速くなり、身体中が熱(ほて)って行くのを感じた。
「む、無理です」
「じゃあ、離さないよ」
「そんな……」
「どうする?このままでは二人共、下に行け無いけど」
更に追い込もうとする伝一郎。その様は、獲物を狩る山追いのようだ。
一方、夕子は既に、冷静な判断が儘ならない状態に陥っていた。このままでは「姉様逹から叱られてしまう」と思った時、彼女の脳裡を、責め立てる先輩女給逹の怖い顔が浮かんだ。
「じゃあ……したら離して下さいますね」
「ああ、約束する。でも、あまり短いのは駄目だな」
「ど、どの位、すれば……?」
「そうだな……十数える位かな」
余りの長さに夕子は一瞬、たじろぎを見せるが、「此処を乗り切れば下に行けるんだ」と、自らに言い利かせ、肚を決めて口を真一文字に結ぶと、ゆっくりと、伝一郎との距離を詰めて行った。
夕子の顔が近付く様を、伝一郎は下から眺めている。強張った顔と固く噤んだ口唇に、思わず可笑しさが込み上げて来た。
「口唇の力を抜いて、こうやって少し尖らせて。顔も緩めないと、接吻の良さが感じられないよ」
夕子は、伝一郎の見よう見真似で、少し口唇を窄(すぼ)めた。総毛立つ程の恥ずかしさの為か、信じ難い速さで脈打つ音が、耳奥で聞こえていた。
「んっ……」
唇が触れた時、夕子は身を竦ませて起き上がろうとした。が、その時、両の頬を伝一郎の掌が優しく包み込んだ。
「ふっ……んんっ」
柔らかい唇の感触と、先程迄とは異なる優しい扱いは、夕子の中に戸惑いを生んだ。
蔓延っていた恐怖心は次第に蕩(とろ)かされて行き、代わって、伝一郎に対する“情”の様な物が、じわじわと心に広がる気がした。
今まで受けた事の無い扱いに、夕子を強張らせていた緊張が次第に解け、やがて、伝一郎に身体を預ける迄に至った。
心の移り変わりに合わせて、伝一郎の動きにも、次第に大胆さが加わりだした。重ねているだけだった夕子の唇に吸い付き、舌で舐め出したのだ。
「ふっ……ううっ……」
手は、包んでいた両頬を離れると、夕子の項(うなじ)から背中を撫で上げ、やがて尻の辺りへと伸びて行く。布越しとは言え、身体中を舐める様に触れられているのに、夕子は何故か、悲鳴を挙げる素振りを見せない。
(ああ、何だか……)
──辛うじて七を数えたのは覚えている。でもその先は、逆上(のぼ)せた様に何も覚えていない。
異性との、初めての接吻と抱擁──。最初は怖じ気付いていた夕子だが、女の扱いに長けた伝一郎の優しさにより、穢れ(けがれ)を知らぬ無垢な身体の芯に、“女の悦び”を感じていた。