前章(二)-18
(やはり、何の音もしないか……)
諦めて自室に戻ろうとした、その時、中から“鈴の音”の様な音がしたのを、伝一郎は確かに聞いた。
再び扉に耳を当て、欹(そばだ)ててみるが、何の音も聞こえて来ない。しかし、頭の中では“何か様子がおかしい”と、言っている。
(ちょっと、覗いて見るか)
伝一郎は、しゃがみ込むと片膝を突き、鍵穴から様子を伺った。が、残念な事に中は薄暗くてよく見え無かった。
(駄目だ。やはり解らない……)
諦めて立ち上がろうと扉の取手に手を掛けた時、取手が回り、扉が施錠されて無い事を知った。
(此処迄来たんだ。次いでに中を見てやろう)
伝一郎は、音を立てずに扉を開き、そっと中に入り込んだ。
此の部屋も、五年前、嫡子として挨拶する為に訪れて以来だが、
(相変わらず、酷い臭いだな)
香でも焚き詰めているのだろう。麝香(じゃこう)の様な甘い匂いが、部屋中を覆っていた。
此の臭いを嗅ぐと、初めて遇った貴子との厭な出来事が思い出され、伝一郎は、自然と眉根に皺を寄せて気難しい顔になっていた。
(こんな物、前は無かったぞ)
夜目が効き出した途端、大きく、装飾彫りが施された仕切り板が行く手を遮っている事に気付いた。
幾つもの仕切り板は横に並んで、差し詰め、寝室をめぐる細い径を形成している。伝一郎は、そっと足を忍ばせながら奥へと進んで行った。
部屋が閉め切られていたせいで、かなり蒸し暑い。直ぐに額から汗が吹き出し、全身がじっとりと濡れている。
(もう少しだ……)
伝一郎は、息を殺して仕切り板の切れ間から、そっと寝室を窺った。
すると──。
「だ、誰も居ない……何故、一体、何処に?」
何と、寝室には、貴子どころか誰の姿も無かったのだ。
緊張が途切れ、伝一郎は体の力が抜けてしまい、頽(くずお)れそうになる。
「じゃあ、さっきの鈴の音は?」
そう思い、寝室を見渡して見ると、部屋の片隅に置かれた籠の中で、小さな仔猫が此方を伺っている。その首には、鈴が付けられているではないか。
「なんで……猫なんか飼ってんだ?」
強い決意を持っての行動は全て空振りと相成り、不首尾に終わった。が、伝一郎の胸中には、新たな疑問が涌き上がって来た。
「こんな夜更けに、義母さまは何処に行ったんだ?」
寝るには早いが、出歩く時刻は疾(と)うに過ぎている。御不浄ではとも思ったが、此処を訪れてからの時間経過を考えると、それも違うようだ。
(まさか!今夜は香山の部屋で……)
そう思った時、昨夜、出会した淫靡な音が頭に甦る──。激しくぶつかり合う肉と肉の音と共に、奇声と言うか悲鳴とも取れる貴子の嬌声は、菊代の、堪え切れずに漏らす艶声とは真逆で、本能の赴くままに鳴き叫ぶ獣のような様に、伝一郎は多いに面食らったものだ。