前章(二)-17
「何だよ、あの言い草は!」
部屋を追われた伝一郎は、未だ、怒りが収まらない。悪態を何度も吐きながら二階に降りて行くと、自室に引っ込んだ。
「此方は心配して言ってやってるのに、全く無視なんて、あんまりじゃないか!」
私事に関しては、心を許した者以外、息子と言えども諫言(かんげん)でさえ、頑なに拒み続ける。だからこそ、事業に己の全てを注ぎ込み、此れ程の成功に至った訳だ。
(そう考えると、可哀想なものだな)
──自分の父親とは言え、後少しで還暦を迎える歳だ。
六十歳と言えば、平素なら鬼籍に入ってるか、隠居生活を送っていても可笑しくない。それが、ずっと一線で事業に邁進して来たばかりに、託せるだけの後継者がいない事実は、不幸と言う以外ない。
(だから、父さまは、僕を急いで嫡子に迎えのか……)
父親の、圧倒的な力の裏に有る孤独さは、伝一郎の胸に、憐憫(れんびん)さと“何とかしたい”と言う使命感を涌き上がらせた。
(やはり、義母さまを諌めないと駄目だ)
父、伝衛門の胸中を慮り、自分が貴子と対決して決着させるしかない──。そう決心した伝一郎は、部屋を出て貴子の居る部屋へと歩みを進めた。
(さて、どう切り出すか……)
強い思いを胸に、勢いで貴子の部屋に到着したが、いざ、扉を前にした処で停滞してしまった。
後は扉を叩くだけだと言うのに、その実行に躊躇う自分がいる。
──若し、大声を挙げられたら、間違いなく父さまは気付くだろう。当然、下で休んでいる香山や女給逹にも知れ渡り、此処に殺到する筈だ。
昨夜は、あれ程、知恵を絞って考えた策が、何れも使えそうに無い事に、伝一郎は気付いた。
為らばと扉を前に、再び彼是と知恵を巡らせてみるが、そう簡単に妙案を捻り出せる筈も無く、そうこうする内に、段々、考える事が面倒臭く為って来た。
(どうせ妙案なんて浮かばないし、抑々、夜に部屋を訪れる事自体、尋常じゃないんだ……)
半ば、破れかぶれの心境で肚を決めた伝一郎は、唐突に扉をニ度叩いた。
緊張が高まると共に、鼓動が速まり、口の中が乾いて行く。僅かな時間の進行さえ、とても長く感じてしまう。
(どうしたんだ?まさか、既に寝てるのか)
部屋内から何の応答も無い事に、伝一郎は、少なからず驚いてしまう。貴子は朝が遅い。大凡(おおよそ)、十時を回った頃にしか起きて来ない。その事を考えても、今は、未だ、九時半過ぎ。就寝には余りに早過ぎる。
(もう一度、様子を見てみるか……)
伝一郎は、再び扉を叩いた。が、やはり反応は無い。
(何だよ。もう寝てるなんて)
強い決意を持って此処に来たのに、最初の取っ掛かりで躓(つまず)いた事で、伝一郎は多いに気が殺がれた思いがした。
そのまま、自室に戻ろうかと思ったが、もう一度だけ、中の様子を窺おうと扉に耳を当ててみた。中からは、取り立てて妙な音はして来ない。嬌声らしき声も聞こえ無かった。