前章(二)-13
貴喜を失って、未だ、三月しか経っていないにも拘わらず、新たな跡継ぎにすげ替え様とする夫の動向は、貴子にとって寝首を掻かれた思いであり、到底、認められない出来事だった。
しかし、彼女の意志など伝衛門に届こう筈も無い。到頭、貴子は離縁を申し出たが、伝衛門の支援によって“家柄”を保持している実家の内情からすれば、離縁など先ず、叶う筈もない事である。
こうして、貴子は、その後の五年間を浮き草の様に流れるまま、生き延らえて来た。
そんな彼女が、夫の使用人と肌を合わせたのは、復讐の一つなのかも知れない。
──一人の人間として見れば、実に憐憫(れんびん)で哀れであり、同情を禁じ得ない。が、かと言って、このまま見過ごすには余りに罪深い。
日が沈み行く中で、硬山の山際が自らが発する陽炎で揺れている。山の燃える姿に、一人、目を凝らす伝一郎は、胸の中で何かを自分に言い利かせた。
(此れは父さまの為であり、強いては菊代の為にも成るんだ……)
決意を誓う伝一郎の耳に、扉を叩く音が聞こえた。扉が開いて夕子が、部屋に入って来た。
「坊っちゃま、後夕食の準備が……」
伝一郎と目を合わせた瞬間、夕子は口を噤み、息を呑んだ。
「どうか、したのかい?」
「あ、あの……」
不可解さに訊ねると、「目が怖ろしい」と、言う。先程迄の鬼気が、未だ残っていた様だ。
「すまない。ちょっと考え事をしててね。で、何だい?」
「あ!お、御食事の用意が出来ております。それに今日は、親方様もいらっしゃいます」
「父さまが……」
「良かったですね。親方様も心待ちにしておいでです!」
父、伝衛門が居るとは、好都合である。食後にでも、それとなく伝えて反応を探ろうと、伝一郎は考えた。
「判った。直ぐに行くと伝えてくれ」
「畏まりました!」
朝や昼は、どうと言う事は無いが、夕食、それも家長と共にする晩餐の場合は、少々、面倒になる。それなりに身なりを整える必要が有るからだ。
夕子に、その旨を伝える様、先に向かわせた後、伝一郎は服を着替える為、作り付けの西洋箪笥の扉を開いた。
「余り好きでは無いが、此れが無難だろう」
そう言って取り出したのは、学校の制服だ。
入学以来、毎年、五着ずつ誂(あつら)えて呉れるのだが、学校では二着も有れば充分で、正直、有難迷惑な部分でも有る。
「此れで良し。後は髪を櫛で整えるだけだ」
──久しぶりの制服だが、着心地は最高だ。小学校卒業の時からそうだが、此れも、菊代が誂えた物ではないのか?
だとしたら、後で父さまに訊いて見よう。
「よしっ!」
伝一郎は、自らを鼓舞して、階下の食堂へと向かった。