8.家族-2
香代と拓也、リカの三人はフロアの端にあるオープン・カフェのテーブルを囲んだ。
「おまえ松原絵里香って名前だったのか!」
拓也がリカの胸に付けられた白い名札を見て、驚いたように言った。
「そうだけど?」リカは首をすくめた。
「知らなかった……」
「すてきな名前ね」香代も言った。「私も知らなかった」
「誰にも教えてなかったもん」リカはいたずらっぽく笑った。「所詮、あの時のあたいは別人だから」
「そうだな。わかるよ」
拓也は微笑みながらコーヒーのカップを手に持った。
「いつからここに? リカさん」
リカは頭の三角巾を外しながら言った。
「まだ二か月なんだけどね」
「なんでこの店に? コネでもあったのか?」
リカは首を振った。
「お総菜作りに目覚めたのよ」
「なんでいきなり……」
「あたいらしくもないって? ほっといてよ」
そしてリカは懐かしそうに言った。
「忘れられなかったのよね、香代さんがあのアパートで作ってくれたおかずの数々」
「香代が作った?」
拓也が顔を香代に向けた。
「めっちゃおいしいの」リカが言った。「あたいが作ったことのないいろんなものを、ささっと作って食べさせてくれてたんだよ」
「そうか」
拓也は目を細めた。
「あのアパートに一人だった時はずっと店屋物だったから、香代さんが来てからはなんか家庭の温かさみたいなのを感じられて癒やされてたんだ」
「リカさん、私の作ったおかず、いつもおいしいって言ってくれて作り甲斐があったわ」
香代はうふふと笑った。
「それに、香代さんがごはん作ってくれるようになってから食費がすっごく安くあがるようになったの。その上あたい、喘息持ちで、特に冬の間はいっつも体調悪くしてたんだけど、二人で暮らしてる時はほとんど症状が出なかったんだよ」
拓也は誇らしげに香代を見ながら言った。
「香代は元々主婦だからね。倹約したり栄養価を考えた食事を作ったりするのはお手の物だよ」
「野菜は欠かしたことがなかったし、必ず味噌汁がつくの。お魚中心の主菜が日替わりで出るし漬け物もあるから、もう毎晩定食を食べさせてもらってたようなものよ」
「食べる時ぐらいはほっとしたいでしょ?」香代が言った。
「それなのに食費がかさまないの。一人で出前とか弁当とか買って食べてた頃よりずっと安く上がってた」
「へえ」拓也が腕を組んで感心したように言った。
「いわゆる旬の物を美味しく食べるっていう香代先生の教えね」
リカはいたずらっぽく笑った。
「リカさんも手伝ってくれるようになってたから、私も楽だったわ」
「夏にかんぱち、秋にサンマ、鯵、冬ははまちの高級魚。刺身も煮付けも塩焼きもどれもすっごく美味しくてさ、あたい目覚めたの」
「海育ちだからね、私。でも初めは野菜嫌いだったリカさんが、自分でインゲンのごま和えを作ってた時は感動したわ」香代は目を細めた。
「インゲンとエンドウの区別さえつかなかったからね。最初は」
リカは頭を掻いた。そして居住まいを正してしみじみと言った。
「……あたいさ、いつの間にか香代さんを同業の同居人じゃなくて家族みたいに思ってた」
「私もよ、リカさん。貴女のことは妹みたいに思えてた」
「そうなんだ……」ちょっと意外そうにリカは首をかしげた。そして続けた。「あたいも本物の家族が欲しくなったってことなのかな……それに同じ女なのに、ああいう普通の家庭料理を作れないのがすごく恥ずかしくて悔しくて。だから香代さんに教えてもらいながら腕を磨いたのよ。花嫁修業にもなるし」
リカは笑った。そして長いため息をついた。「もう一人でいるの、飽きた」
拓也が言った。「しかし、思い切った転身だな、リカ。AV女優から総菜屋の姉ちゃんへ」
「これからは松原さんって呼んでよ、拓也」あはは、と笑ってリカは続けた。「煮魚のお総菜は全部あたいが作ってるのよ。すごいでしょ。あ、それに忘れられないナスのしぎ焼きも」
そしてリカはウィンクをした。相変わらずのそのチャーミングな笑顔に、香代はこぼれる涙を抑えきれなかった。
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