6.心の奥底-1
そのこぎれいなカフェオレ色の壁のマンションの前の通りは小学生の通学路になっていた。
「今日は入学式か……」
二階のベランダから下を眺めていた拓也は小さなため息をついてつぶやいた。
着飾った親に手を引かれた新一年生の黄色いランドセルカバーが一様につやつやと光っている。
香代は拓也が一人で借りているこのマンションの二階の部屋に、彼と一緒に住み始めていた。
ダイニングのテーブルに置かれた花瓶に菜の花を一輪挿して、香代は通りに面した奥の洋室に入った。
その部屋の中央にはカーペットが敷かれ、額装されたラッセンの鯨の画が掛けられた壁際に一人用のベッド、その足下に木製の本棚が置かれ、映像や美術、映画、インテリア関係の本が並んでいる。そして部屋の片隅にはモスグリーンのシュラフが無造作に丸めて置かれていた。
ベランダで振り向いた拓也が言った。
「香代さん、そろそろ家に帰る準備もしないと」
香代は浅葱色のカーペットの上にぺたんと座って拓也を見上げた。
「何か、もう私、あの家には帰れない気がする」
拓也は香代の前に膝を抱えて座った。
「何を言い出すんだ。貴女の家でしょ?」
「そうだけど」
「それに、もうすぐ約束の四年になるし、貴女のご主人への疑いも晴れた。事情を話せば家族だってちゃんと迎え入れてくれるよ」
香代はぽつりと言った。
「私、このまま貴男と暮らしたい……」
拓也は唇を噛みしめた。
「もう貴男と離れたくないの」
「だめだよ、香代さん。僕は貴女のつらい境遇に同情して今まで一緒にいたけど、元に戻れることになった以上貴女が僕と一緒にいる理由はないよ」
香代はすがるような目で言った。
「同情だけだったの? 貴男にとって私は同情すべき憐れな女ってだけの存在だったの?」
拓也は黙っていた。
「そうよね。ごめんなさい、私の思い込み……」
香代はうつむいた。
「贅沢よね。家族も貴男も手放したくない、なんて……」
「香代さん、僕は、」
拓也の言葉を遮り、香代は大声を出した。
「わかってる。こんな地味でめんどくさい女なんかより、もっと若い子の方がいいに決まってるわよね」
「香代さん、いいかげんに、」
香代は両目から涙を溢れさせながら叫び続けた。
「ごめんなさい、私どうかしてた。勝手に貴男を縛りつけてた。もういい。私消える。貴男の前から消えるから!」
突然拓也は香代の身体を抱きしめた。
「香代っ!」
「離して!」
香代は拓也の腕の中でもがいた。
「二度と言うな! そんなこと、僕に向かって二度と口にしないで!」
拓也はそう言うと、香代の口を自らの唇で塞いだ。香代は抵抗をやめ、涙をぼろぼろこぼしながら拓也の背中を両手でぎゅっと抱きしめた。拓也は何度も唇を重ね直し、それ以上香代が言葉を発することを禁じた。
二人にとってそれは初めてのキスだった。
◆