5.事件-5
年が変わった。例年に比べて寒さの厳しかった冬がやっと終わり、日差しや風の温かさがいつもにましてありがたく感じられる春3月だった。
前日の撮影の疲れが残っていた香代は、近くのマッサージ師の元を訪ねた。
その店の前の猫の額のような花壇にはパンジーとデイジーが並んで花を咲かせていた。行きつけのその店は、狭い間口のひっそりとしたたたずまいで、香代にとってここの老婦人に身体をほぐしてもらっている間が、何より気分を落ち着かせ癒やされる時間だった。
「カヨコさんも、もう長いわねえ、この仕事」
その穏やかな物腰の店主は、手をアルコール・ジェルで殺菌しながら皺の刻まれた顔を香代に向けた。
「そうですね」
「いつまで続けるつもり?」
「まだ……わかりません」
「そう。あまり無理しないでね」
彼女はベッドにうつぶせになった香代の肩を柔らかく揉み始めた。
二人は、それ以上会話を続けなかった。
アパートに帰った香代は、キッチンがいつになく片付き、きれいに拭き上げられていることに気づいた。いつもならリカの飲んだビールの空き缶が数個、シンクの脇に転がっているはずだったが、この日は違っていた。
それでも、香代は取り立てて気にすることもなく自分の部屋に入った。
「いつまで続けるつもり……か」
香代は自分の部屋に入り、タンスの一番下の引き出しを抜いた。
ない。そこにあるはずのベージュ色の小さなハンドバッグがない。
毎回受け取るギャラの中からコツコツと密かに貯め込んでいた現金が入ったバッグがなくなっている。
香代は三段ある引き出しを全部引っ張り出して中を掻き回してみたが、それは見つからなかった。彼女は慌ててスマホを手に取った。
「拓也君!」
『ああ、香代さんどうしたの? 大声出して』
「拓也君……」
涙声になっている香代の異変に気づいた拓也は、理由を訊くこともなく早口で言った。
『待ってて、すぐに行くから!』
間もなく訪ねてきた拓也に香代は泣きそうな顔を向けた。
「お金がなくなってるの」
「な、なんだって?」
「私が貯めていたお金が」
「泥棒に入られた?」
拓也は部屋の中をぐるぐる見回した。
「たぶん……」香代は力なく言った。「リカさん」
「ええっ?!」
二人はリカの部屋の襖を開けた。和室の畳に敷かれた水色のカーペット、そこに置かれた一人用のベッド、部屋の隅の衣装ケース、全てそのままだった。
ドレッサーの上に、無造作に置かれていたスマホを手に取った拓也は、唇を噛みしめた。「もうバッテリーが切れてる……」
「どうしよう……」
「でも、なんでリカがお金を盗ったってわかるの?」
香代は言いにくそうにつぶやいた。
「お金の隠し場所を知っていたのはあの人だけだから……部屋も荒らされてなかったし」
「そうか……間違いなさそうだな」
◆
拓也と香代は『Pinky Madam』のオフィスに黒田を訪ねた。
「知っとる」
黒田は憮然とした表情でいつものデスクに向かっている。いつもと違うのはその顔が青ざめ、両肘をついて頭を抱えていたことだ。
「あいつを探さにゃならん」
香代が言った。
「社長にも何か困ったことでもあるんですか?」
「あんたには関係ないことだ」
拓也が黒田の目を見据え、静かに、しかし凄みのある声で言った。
「社長の愛人だったんでしょう? リカは」
黒田はきっと拓也を睨み付けた。そしてしばらくの沈黙の後、苦々しげに口を開いた。
「おまえたちに言う義理はこれっぽっちもないんだが、」
黒田の話によると、リカは昨日ここに来て、その愛人関係を解消したいと言い出したのだと言う。そして仕事も減って待遇も悪くなってきたことを理由に辞めたいと伝えてきた。黒田は考え直せと凄んだがリカは色よい返事をしなかった。黒田が必死で慰留を繰り返すと、経済的に苦しいのを保証しろ、と言い出し、今後一年分のギャラの前払いを条件に、後一年だけここに残ることを承諾した。しかしその前払いの要求に応えなければ自分と愛人関係だったことを妻の厚子にばらして即座に会社を辞めると脅し、黒田はしぶしぶリカの働きから換算した400万円を手渡したのだと言う。
「持ち逃げ……か」
拓也はつぶやいた。
「私の部屋のお金も盗られたんです」
香代が言った。
ちらりと香代を見やった黒田は吐き捨てるように言った。
「これほど手癖の悪い女だとは思わんかった」
そして黒田は自嘲気味に言った。
「まさか飼い犬に手を噛まれるとはな」
「社長、」拓也がデスクの横に立ち、黒田を見下ろした。「一つ訊いていいですか?」
「なんだ」
黒田はめんどくさそうに拓也を見上げた。
「香代さんのギャラから林さんが受け取って貴男に返しているという借金、今いくらぐらい返済が済んでるんです?」
「い、いきなり何を……」黒田の視線が揺れ始めた。
「教えて下さい」
「ひ、100万ぐらいだったか……」
「そんな!」香代が叫んだ。「そんなはずはありません。そんな少ない額のはずは」
「おかしいですね」拓也は眉を寄せて手をこまぬき、黒田を見下ろした。「この会社で一番の売れっ子カヨコのDVDの本数とその販売枚数から考えたら、もうとっくに全額返済できているはず」
「そ、そのことについては林に任せとるから」
黒田のいつもの威勢がどこかにいっていた。
「林さんはどこです?」拓也は迫った。
黒田は二人から目を背けたまま開き直ったように椅子にふんぞり返り、ぽつりと言った。
「今、リカを探し回っとるよ」
「じゃあ帰ってきたら教えて下さい。訊きたいことが山ほどある」
拓也は早口でそう言って、香代の手を取り、そこを出て行った。