4.セックス・セラピスト-3
秋を感じさせるような一陣の風が『海棠スイミングAW』の前の通りを吹きすぎた。通りに落ちていた数枚の枯葉が舞い、軽く回転して飛び去った。
通りに面した広い駐車場の一画から出発したスイミングスクールに通う生徒たちを乗せたバスを見送った後、ミカは隣に立ったケンジに言った。
「明日、クライアントとの面談が10時からだけど」
「そうだな。海山(みやま)和代も同席するのか?」
「来るって言ってた」
「そうか。今回の依頼人って、どんな感じなんだ?」
「ま、標準的なカップルだね。お互い愛し合ってるけどエッチがうまくいかなくて、彼女がなかなか感じない」
「で、海山和代の診察の結果は?」
「彼女の方の身体は健康そのもの。内分泌系も生殖系も全く問題なし」
「彼氏の方は?」
「こっちも健康体。元々高校時代ボクシングをやってたぐらいだし」
「しかし何だな、セックスのやり方を教えるっていうのも、なんかお節介だよな、考えてみれば」
「そう?」ミカはケンジを横目で見た。
「だって、みんなうまくいかないとこからスタートして、だんだん慣れてくるもんだろ? セックスなんて」
「この二人、付き合い始めて二年、身体の関係になって一年なんだってさ」
「え? そうなのか?」
「一年間挑戦し続けてもエッチがうまくいかないから泣きついてきたんでしょ? あたしたちに」
「そうなんだな」
ケンジはミカを促して『KAIドーム』の入り口に足を向けた。
◆
明くる朝、8時頃、ケンジがホテル地階の事務所に入るとすぐ、スマホの着信音が鳴った。
『ケンジさーん』
脳天気な高い声がいきなり聞こえた。
「なんだ海山和代。こんな早くから」
『今日、例のクライアントとの面談ですよね? 予定通り10時からですか? あたし何時頃行ったらいいですか? なんかおいしい物買ってきましょうか? ケンジさん何が好きでしたっけ? あ、シンチョコのガトーショコラなんかいいですね』
ケンジは眉間に深い皺を寄せて返した。
「あのな、質問は一つずつにしてくれないか。それにガトーショコラはキミの好物だろ?」
『9時頃行きます。ショコラ・プリンも買ってきますね』
ケンジの小言も返事も聞かず、その弾けた女医は一方的に通話を切った。
そう、海山和代(37)は精神科、脳神経科、産婦人科の看板を挙げる『クリニック・マール・イ・モンターニャ』、通称『マルモン・クリニック』の経営者で、頭の切れる学会でも屈指の優秀な医者だった。ケンジとミカにとっては、セックスセラピーの重要なスタッフとして、クライアントの心理的、身体的な状況把握に貢献していた。ただ、その弾けた性格から、ケンジもミカも彼女との直接会話をできるだけ避けたいと思うのが常だった。しかしクライアントからの依頼があればそうも言ってはいられない。
海山和代は9時頃、ミカが事務所に顔を出してから間もなくやって来た。
「おはようございまーす」
「和代っ! ノックぐらいしろ」
ミカが恫喝した。
海山和代はけろっとした顔で言った。
「お約束通りガトーショコラとショコラプリン、買ってきましたー。みんなで食べましょう」
「あのな、」ケンジが腰に手を当てて言った。「遊びにきたのか、キミは」
「やだなー、ちゃんと書類、揃えて持ってきてますよ」
海山和代は左手に提げたケーキ箱を持ち上げたまま、右手に持ったバインダーで自分の顔を団扇のように扇いでみせた。
「とにかく座れ、そこに」
ミカがいらいらして言った。
ソファに座ったケンジに寄り添うように、海山和代はソファに腰を下ろした。センターテーブルを挟んでミカがその向かいに座った。
「いつも思うんだが、なんでおまえがケンジの横に座る?」
海山和代はケンジの腕に自分の腕を絡めて彼の肩に頬を乗せた。
「だって、あたしケンジさんが好きなんですう」
ケンジは海山和代の腕を振り払って言った。
「やめろ」
「いつになったら抱いてくれるんですか? ケンジさーん」
「いいかげんにしろ。俺はそんなつもりはない」
海山和代は口を尖らせた。「あたしの初体験の相手はケンジさんって決めてるのに……」
「諦めろ」
実は、海山和代は未だに男性経験がないのだった。
「やっぱりあたしが貧乳だからですか?」
「な、何を突然言い出すんだ、キミはっ」
「ミカさんは巨乳だし……やっぱりケンジさんはこのおっぱいに釣られたんですか?」
海山和代は前に座ったミカの乳房を指さした。
「釣られたとは何だ」ケンジはムキになって言った。
「相変わらずだな、おまえは……」ミカはため息をつきながら、海山和代が買ってきたケーキの箱を開け始めた。
「って、」ミカが手を止めて顔を上げた。「『シンチョコ』は10時開店だろ? 昨日買っておいたのか? このケーキ」
ちっちっち、と指を小さく左右に振って、海山和代は言った。
「さっきケニーさんを説得して開けてもらいました」
「嘘つけ。強引に乗り込んだんだろうが、おまえが」
海山和代はぺろりと舌を出した。
「マユミ先輩も迷惑そうな顔してました」
「当たり前だっ!」