3.救済者-7
シンチョコ近くの青葉通りアーケードの端にある和食レストランの小上がりに拓也と香代は向かい合って座っていた。
「ごめん、やっぱり売ってなかったね、『サマー・レインボウ』」
拓也がおしぼりで手を拭きながら申し訳なさそうに言った。
「大丈夫。気にしないで。来年は夏に買いに行きましょう。忘れずに」
香代は笑った。しかしすぐに真顔に戻り、手を膝に乗せた。
「わざわざ連れてきてもらった拓也君には悪いけど、」
拓也は顔を上げた。
「やっぱり私、この街には来ない方が良かったのかもしれない……」
「もしかして」拓也が言った。「あの時店から出て行った高校生って」
香代は小さくうなずいた。
「つらい偶然だった……」
すぐに顔を上げて、香代は拓也を見て寂しげに微笑んだ。
「ごめんなさい、偶然よ、予測できなかったただの偶然」
そんな香代の無理のある笑顔に拓也は胸が締め付けられる思いだった。目の前に現れた自分の息子と会うことができない、声を掛け呼び止めることさえ。その理不尽極まりない事実が香代自身の責任ではないということが、拓也にむやみに歯がゆく、やるせない気持ちを抱かせるのだった。
拓也は窓の外に目をやった。いつしか雨は本降りになっていて、街全体が白く煙っていた。
「なんかすごい施設ができてるね」
「ほんとね」
アーケードの出口は大きな通りとの交差点になっていたが、そのアーケードの向かいの道路沿いに広く工事用の柵が設けられ、中では雨の中クレーン車が数台その長いアームを伸ばして太い鉄骨材を持ち上げていた。
「『海棠スイミング』のプールがあったところでしょう?」
「事業拡大してるらしいよ」
「そうなの……」
「プールの他にレストランやテナントショップ、シティホテルが建つ予定なんだって」
「そう、この街もますます活気づくわね」
「来年の10月にオープンって書いてある」
拓也は窓の外を指さした。
「そう言えば拓也君は、」香代が静かに言った。「自分のご家族のこと、話してくれたことないね、私に」
拓也は香代の顔を見つめ返した。
「貴男は私や息子の将太のことをずっと気に掛けてくれてるのに……」
香代は目を上げた。
「私も、もっと拓也君のことが知りたい」
香代から目をそらして困った顔をしていた拓也は、決心したように顔を上げ、香代の目を見つめた。
「このことを知っている人は、今はほとんどいないんだけど……」
香代は小さくうなずいた。
「僕は孤児なんだ」
香代は思わず身を硬くした。
「と言うより僕は両親の顔を知らない。僕を育ててくれたのは伯母さんなんだ」
「そ、そうだったの……ごめんなさい、貴男が、その……」
拓也は顔を上げて微笑んだ。
「ううん。こっちこそ。気を遣わせちゃってごめんね。大丈夫。今はもう平気だから」
居住まいを正した香代をまっすぐに見ながら、拓也は続けた。
「その伯母さんも、僕と血が繋がってるかどうかもわからなかった。もしかしたら赤の他人だったのかも」
「……」
「でも僕にとっては親同然。っていうか僕はずっと伯母さんを親だと思ってた」
「その伯母さんは、今どこに?」
「彼女は僕を大学にまで行かせてくれたんだけど、卒業を待たずに亡くなったんだ。だからその瞬間から僕は天涯孤独ってやつ」
拓也はうつむいて小さく笑った。
香代はしばらく言葉を無くして唇を噛みしめていた。
「でもさ、今はあんまり寂しいとは思ってないんだ。もうずいぶん日が経ったからね。それに仕事もたくさん頂いて、知り合いもいっぱいいるし」
拓也は顔を上げて微笑んだ
香代はようやく口を開いた。
「拓也君は、それからずっと一人で生きてきたのね……すごいわ、えらいよ、ほんとに……」
香代の目から涙がこぼれた。
「気を遣われるのは好きじゃないから、あまり人には話さなかったんだけど、このこと」
「ほんとにごめんなさい。訊いちゃいけないこと、訊いちゃって……」
拓也は首を振った。
「なんか香代さんに聞いてもらったらいい気持ちになったよ」
「いい気持ち?」
「うん、何だかいい気持ち」
拓也は屈託のないいつもの笑顔を香代に向けた。そして急に真面目な顔になって言った。
「僕はいつか必ず貴女を将太君の元に返す。決意を新たにしました」
そしてすぐにまた笑顔に戻った。
「拓也君……」