3.救済者-4
「あんドーナツ買ってきたよ、香代さん」
珍しく拓也が昼前に香代をアパートに訪ねてきた。香代はすぐに彼を招き入れた。
畳にあぐらをかいて座るやいなや拓也は紙袋を開けて、あん入りドーナツを取り出した。
「拓也君、ちょっと待ってよ、お砂糖こぼれちゃう。お皿持ってくるから」
香代は言ってキッチンのキャビネットから白い皿を一枚取り出し、二つの湯飲みと急須の乗ったトレイに乗せてリビングに運んできた。
「どうしたの? 急にそんなもの買ってきたりして」
香代が拓也の湯飲みに茶をつぎながら言った。
「今日、朝飯食べる暇がなくてさ。いつもより早い撮影だったから」
「そうなの」
「それに近頃妙にお腹がすくんだ。食欲の秋だからかな」
拓也は笑った。
「私、秋ってきらい」
香代がぽつりと言った。
前に座って湯飲みを手に持った拓也が目を上げた。
「寂しいから。周りのものが一斉に活気を失っていくように思えるの」
「香代さん、もっとポジティブにいこうよ」
拓也はドーナツにかぶりついた。
香代がAV女優の仕事を始めてから二年半が経とうとしていた。カメラマンの拓也は香代にとって、もうなくてはならないほどの存在になっていた。拓也もこの憐れな境遇の女性に対して、ただの同情だけではない感情を持ち続け、それは次第に胸の中から湧き上がる熱を持ち始めていた。
「私ね、今も時々将太の夢をみるの」
拓也は意表を突かれたように食べかけたドーナツを口から離し、香代の顔を見た。「そう……」
「でもその時の将太はいつもまだちっちゃいままなの。幼稚園児ぐらい」
香代は微笑んだ。ひどく温かで優しい笑顔だった。
拓也がそんな香代の顔を見るのは初めてだった。
「それで、夢の中で香代さんは将太君を抱きしめてるわけ?」
「手を繋いで海岸を散歩してるの」
「海岸?」
「私の実家は海のそばなの。父は漁協の内部検査室長を務めてた。将太を産んだ時もその実家にしばらく帰ってたの」
「そう」
「だから時々海に行きたくなったり潮の香りを嗅いだりしたくなるのよ」
「ここから海は遠いな……」
拓也は困ったように言った。
「あ、ごめんなさい、貴男に海に連れて行ってくれ、って言ってるわけじゃないから」
香代は眉尻を下げた。
「将太が小さい頃はよく実家に連れて行ってたわ。あの子よく磯で貝殻を拾って遊んでた」
香代はそう言って、三面鏡の上に置いていた小さなポーチを手に取った。そしてその中から取り出した物を手のひらに載せ、拓也に見せた。
「貝殻。赤貝の?」
「そう。将太と一緒に海岸を歩いてた時に拾ったの」
「将太君が拾った貝殻?」
「ううん、将太が拾ったのはこれ」
香代はそれを裏返した。赤貝の殻の中に可愛らしいピンク色の小さな別の貝殻が、透明な樹脂に固められて入っていた。
「桜貝だね。ちっちゃくて可愛い」
拓也はそれに目を近づけた。
「将太が拾って『母ちゃんにあげる』って言って、私にくれたの」
「そう」拓也は思わず頬を緩めた。
「あの子が初めて私にくれたプレゼント。でも薄くて割れちゃいそうだから、赤貝の中にUVレジン液で固めて入れてるのよ」
香代はそれを拓也に手渡した。
「赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいるみたいだ。香代さんの貝殻が将太君の桜貝を包み込んでる」
拓也はそれを愛しそうに眺め、すぐに香代の手に戻した。
香代は遠い目をしてため息をついた。
「私の耳の中には、ずっとその時の波の音が聞こえてるの」
拓也は今までに見たこともないような穏やかな顔で懐かしそうに話す香代を見つめながら、いつかこの女性を心から癒やせる場所に連れて行ってやりたいと強く思った。何の悩みも苦しみもない穏やかな場所に。そしてそのそばには彼女の最愛の息子将太がいなければならない。
「香代さんはチョコレート、好きだよね」
拓也が言った。
「なに? いきなり」
「『シンチョコ』にさ、サマー・レインボウっていうチョコレートがあって、口に入れると潮の香りがするんだよ」
「知ってる」
香代は嬉しそうに言った。
「私もよく買いに行ってた。でもあれ、夏季限定じゃない? 今十月よ」
「行ってみない? 気晴らしに。たまには外に出ないと」
「そうね……」
「お昼ご飯もまだだしさ、ついでにランチタイム!」
拓也は子供のようにはしゃいだ。
「じゃあ、ちょっと待ってて、変装強化するから」
「なにそれ。変装強化って」
香代は困った顔をした。
「もし、街で将太とかに会ったら……つらいもの」
拓也はしまった、という顔をした。
「それに、あの店のマスターのケニーさんとは昔から顔見知りだし……」