From Maria-6
僕はすっかり、あのメールに騙されていた。 不気味としか言いようのないくらい、あっけらかんとしていて、かつ前向きな内容から、僕はその中身にある本当のマリアの人格を見抜くことが出来なかった。
マリアの正体。それはおそらく、陰湿な闇に身を置くような、汚らしい猛獣の性質を備えもつ者なのだろう。せめてそれが人の形であることを、僕は一人歩きながら願った。
腕時計のデジタル音が、五時を知らせる。
表通りから細い路地へ曲がると、別世界へ迷いこんだように、街の喧噪が途切れた。周囲は高いブロック塀で囲まれている。日はとうに沈み、民家からもれる明かりで闇は薄まっているものの、静けさも手伝って、かなり気味が悪い。普段から通る道だというのに、僕の心は、さっきから言いようのない不安にざわついて仕方がなかった。
空気が薄い、とでも表現したらいいだろうか。呼吸が苦しく、真空状態の中に身を置いている気がした。背中にかすかな視線を感じた。意識する前から何かを感じ取っていたのか、シャツの背中が汗で濡れている。僕は足を止めた。ジーンズのポケットに突っ込んでいた腕を抜く際、震える手と一緒に携帯電話を取り出す。あごを上げたまま、押し慣れたボタンを押す。鼓動が早鐘を打ち始めている。口の中が乾いて、喉がくっつきそうだ。
リダイヤル。
と、聞き覚えのあるメロディーが後方から聞こえて、僕は反射的に振り返っていた。
「・・・」
向こうのメロディーが消えた。
少し先に人影があった。
わきに立つ電柱に取り付けてある電灯が、ジジジ・・・と音を低く唸って点滅する。
頭の中が、鳴り響く警告音で痛い。逃げろ。そう伝えている。早く、逃げるんだ。
しかし僕の足は、一歩も動けずにいた。瞬きさえ出来ず、眼球が乾いた。電球に浮き彫りにされた明暗が、シグナルみたいに僕の視界に映った。こっちを真っ正面から見据えたそれは、小さな獣のように見えた。
目をこらす。間違いない。あの時の老婆だ。僕の脳裏にあの日の映像が浮かんだ。
ゲームセンター。プリクラ。孫と思われる少年。そこに一緒にいた、老婆だった。しかしそれは辛うじて認められるほど、眼前に立つ彼女はひどい形相をしている。もはや人間の持つ表情ではない。
「・・・マリア、か」
僕が口を開くのと、ほとんど同時だった。
離れていた老婆の顔面が、僕の視界ぎりぎりまで迫っていた。みぞおちに、鋭い衝撃が走った。それが老婆の拳だと気が付いた時には、伏せた顔にも、くらっていた。
のげぞるように僕の体は飛び、背中をコンクリートの壁に叩きつける。反撃しようにも、そんな余裕はとてもではないがない。しわがれた声が、つんざくような奇声をあげて僕に襲いかかる。左の頬を殴られ、首がねじれる。右の頬を殴ると同時に、両膝にも打撃を与えられ、僕の体は真横へ倒れ込んだ。
「殺してやる」
髪の毛を鷲掴みにされ、無理やり立たせられた。薄くもやのかかった視界に、老婆の顔があった。染みなのかしわなのか、判断の出来ない黄色い肌。目玉がかすかに赤い。
口の中が、生温かく、錆の味がした。
首に、張り付くように両手をまわされる。
「なめやがって」
意識が朦朧と、電波の悪い携帯みたいに飛びかけている。
「殺してやる」
「コロシテヤル。コロ、コロ、コロシ、コロシテヤル。コロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロコロコロコロシテヤルルヤテシロコルヤテシロココロシテヤルオマエハシネシネシネシネシネシネシシシシシネ死ね。お前は、死・・・」
そこまで言って、老婆が言葉を区切る。
誰かの声がした。低い、怒鳴るような声。
・・・足音。そこで、僕の意識は途切れた。