From Maria-3
結果から言うと、僕は彼女に負けた。しかも、完膚無きまでにやられた。驚いたことに、裡里はこれが初めてのゲームだったと証言する。
「さ。プリクラ行って撮ろう。きっともう、さっきの老若コンビはいないわ」
息のひとつさえ乱さず、こともなげな調子で裡里は言った。彼女の意識は完全に本命のプリクラへ向かっているらしく、子猫を思わせるような一重の大きな瞳が輝いている。僕も先を行く彼女の歩みに合わせて動き出そうとした、その時だった。
ふと、シャツの胸ポケットにあるはずの重さがなくなっていることに気が付いた。
右手で触れてみる。しかしポケットの膨らみは、触れただけで平たくなった。ここに入れておいたはずの携帯電話が、なくなっていた。どこだ。ホッケー台の下をのぞく。足元、そこから少し離れたところも見て回ったが、見つけられない。
いつからなくなっていたのだろう。記憶の糸を手繰り寄せ、自分が携帯電話を取り出し、どこかへ置きっ放しにしなかったかを考えた。残念ながら、何も思い出せなかった。いよいよ本気で焦り始めた僕は、カウンターへ走り、そこにいた見るからにアルバイトという感じの男に携帯電話の落とし物が届いていないかきいてみた。
ああ、と気のない返事をするなり、彼はカウンターの引き出しから、それを取り出した。 目の前に置かれ、僕は目を落とす。
ブルーベリーカラーの、つるりとした流線形ボディ。ネイティブアメリカングッズの専門店から購入した、外人の瞳を連想させる青い石で連なったストラップ。間違いなく、僕の携帯電話だった。
自分の持ち物であると認め、落とし物届の用紙に確かに受け取ったことをサインした後で、ようやく僕の手元にそれは戻ってきた。
迷子になった我が子を見つけた時も、こんな気持ちになるのだろうか。左の手のひらに乗った携帯電話を見つめながら、僕は胸を撫で下ろす。と、そこでメールが届いていることに気が付いた。僕から離れている間に、こいつが受け取ったものだろう。
「何をしているの」
背中から、僕の耳元まで顔を寄せて彼女は言った。一切の感情を感じさせないような、淡々とした口調。間違いなく不機嫌な時の、裡里だった。僕は慌てて振り返る。
「携帯電話を落としてしまったんだ。それで、ここまでとりにきていた」
「そんなの、あれの後でいいじゃない」
彼女の指さす先には、ビニールカーテンがあった。
「ずっと待っていてもこないし。尚喜がくる前に、見て、他の人が入ってしまったわ」 「悪かった」
僕は素直に謝った。
「とにかくこれ以上、誰かに入られたら耐えられないから、私たちもあそこで待機していよう」
彼女の後に続きながら、携帯電話をジーンズのポケットから取り出す。さっき受信していたメールが、なんとなく気になった。片手で操作しながら、メールボックスを開く。
『お疲れ』
タイトルはそう書かれている。見た瞬間、妙な違和感を感じた。とりあえず親指で、そのメールをクリックしてみる。
『やっほー。元気?とにかく今日は疲れたよ!もうくたくた。そっちは何してる?またゲーセンなんて行っているんじゃないでしょうね(笑)んじゃ、もう寝るよ。また明日ね。おやすみなさい。』
内容だけなら、なんら普通のメールと変わらない。しかし脳の片隅で鳴り出した警告音が、しだいに激しさを増している。紙にこぼれたインクのように、一滴の不安が僕の心の中にゆっくりと広がっていくのが分かった。 はっと息を飲み、もう一度、メールのタイトル画面へ戻る。四角く切り取られた液晶の下には、必ず差出人の名前が表示される。だけどそれは、あくまで僕が相手の名前をアドレス帳に登録した場合に限る。だから僕が登録をしていない人間から送られてきたメールは本人の名前の代わりに、本人のメールアドレスが表示されるのだ。
『maria』
マリア。
差出人の欄には、そう書かれていた。これがメールアドレスでないことは、確かだ。そしてそれは同時に、アドレス帳に登録されている名前であることを意味していた。
しかし僕は、マリアなんていう人間の名前を登録した覚えは、ない。