父の温もり(後)-1
02.恋人のように
何度も訪れたことのあるケンジの家、見慣れたリビングのソファ。夏輝は今、ケンジと二人きりでこの空間にいることが、まるで夢のように感じられていた。
「シャワーで汗を流すといい」ケンジはソファの脇に立ってネクタイを緩めながらそう言った。彼はいつも通りの気負いなく爽やかな態度だった。
「着替えはドレッサーの脇に用意してあるから」
夏輝は魔法をかけられたように、促されるままにシャワールームへ入っていった。
いつの間にそろえたのか、ドレッサーの脇の小さなテーブルに真新しい水色の飾り気のない小さなショーツと、おそろいのスポーティなブラジャーが揃えて置いてあった。見たところ彼の妻ミカが使っているランジェリーではなさそうだった。
シャワーを済ませた夏輝はそれを身につけ、ドレッサーの鏡に映った自分の全身を眺めてみた。ワインのせいでか、全身がピンク色に上気していた。その柔らかな肌の色に、水色の下着が美しく映えて見えた。夏輝はその上からガウンを羽織り、シャワールームを出た。
「気分はどう? さっぱりした?」ケンジは声をかけた。
「は、はい。ありがとうございます。着替えまで……」
「遠慮しなくてもいいよ。君のためにさっき急いで買ったランジェリーだけど、良かった、着てもらえて」そしてケンジは笑った。
「あ、あたしのために? こ、この下着を買ってくれたんですか?」夏輝が驚いて言った。男性が一人で女性用のランジェリーを買うことなど、夏輝には想像もできなかったからだ。
「そうだよ。ほら、商店街の西の入り口あたりにあるショップ。ミカに着て欲しいものなんかもそこで僕は買ってやったりするよ」
「は、恥ずかしくないんですか?」
「最初は恥ずかしかったけど、何度もミカと二人で行くうちに、僕も顔見知りになっちゃってね」ケンジはまたにっこり笑った。「僕には娘はいないけど、いたらきっとこうして買ってあげるよ」
夏輝は眉尻を下げてケンジの笑顔を見つめた。
「サイズはどう? きつくない?」
「ぴったりです。びっくり」夏輝はガウンの上から自分の胸を押さえた。
「ジャストサイズを選ぶ自信がなかったから、ストレッチ素材のスポーツブラにしたんだ」
「あたし、こういうデザイン、好きです」
「そう」ケンジはにっこり笑った。「活発な君に合ってると僕も思うよ」
ケンジは腕時計を外して、リビングのテーブルに置いた。
「コーヒー、淹れといたから、飲みながら待ってて」
「はい……」
テーブルにはピンク色の愛らしいマグカップに入れられた香しいコーヒーがゆらりと湯気を立てていた。
「あ、それから、」リビングを出て行きかけたケンジは、立ち止まり振り向いて言った。「もし、君がよければ、ポニーテールにしておいてくれないか? 僕は君のポニーテールが大好きなんだ」
ケンジはまた微笑みながらそう言うと、鼻歌交じりにシャワールームへ消えた。
夏輝は、リビングのソファでケンジの淹れてくれた極上のマンダリンコーヒーをすすりながら考えた。どうしてここまでついてきてしまったのだろう。今からの行為は立派な不倫だ。恋人修平やケンジの妻ミカに対する背徳行為だ。冷静に考えればそうだったが、彼女の身体は熱く火照り、もはやケンジに抱かれることを拒否する気持ちなど微塵もなかった。それは決してワインのせいなどではなかった。
コーヒーを飲み干した夏輝は立ち上がり、シャワールーム脇にあるドレッサーに向かった。そして椅子に掛け、大きな鏡に向かってドライヤーを手に髪を乾かし、ケンジに言われたとおりに元通りポニーテールに結わえ直した。
シャワーから迸る水の音が止み、ドアが開く音がした。そしてしばらくすると、背後の脱衣所のドアを開けてケンジが姿を現した。
ケンジは黒い下着だけの姿だった。逞しくもしなやかな両脚が長く、すらりと床に伸びている。
彼は椅子に掛けたままの夏輝の背後に立ち、鏡の中の夏輝に笑顔を向けながらそっと腕を彼女の胸元に回した。
「寝室にどうぞ」
鏡の中でケンジはにっこりと笑った。