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追憶の艶
【エッセイ/詩 その他小説】

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追憶の艶-1

 『あの夏60年目の恋文』というNHKというドキュメンタリー番組を観たのは10年ほど前のことだが、複雑な想いとともにいまだに心に残っている。

 昭和19年の夏のことである。終戦の1年前、1人の教育実習生が代用教員としてある国民学校の4年男子を受け持った。清楚で美しい女子学生であった。
 1人の少年が彼女に仄かな恋心を抱くが、密かな片思いのまま実習生は優しい笑顔を残して去って行った。
 やがて戦争が終わり、時が流れ、いつしか少年の記憶も薄れ、想い出の扉も閉ざされた。

 ある日のこと、彼は偶然観たテレビの映像の中に『先生』を見つける。戦争を扱った番組で、彼女は教員だった当時を振り返ってインタビューを受けていた。姓が変わって年老いたその顔の中に、彼は確かな『先生』の面影を見た。
 鮮やかに甦った想いに動かされ、彼は手を尽くして先生の住所を調べた。そして、手紙を出した。内容は、幼くも熱く切ない当時の心情を綴ったものだった。先生は82歳、少年は70歳を超えていた。

 先生は微かに少年を憶えていた。手紙を読みながら記憶を辿る先生の映像が流れる。去来するものがその表情に滲み出ていた。
 思いがけない『恋文』に懐かしさと嬉しさが心に流れ、丁重な礼状をしたためる。それから2人の手紙のやり取りが続いた。

 しばらくして、彼の気持ちに変化が訪れる。少年時代の感情が心を支配し始めたのである。その想いは思春期の萌芽とは異質のものだったが、憧れや思慕を含んだ仄かな恋愛感情といえるもので、過去を遡ろうとする静かなる熱情だった。
 彼はその気持ちを正直に書き、
「合いたい……」と伝えた。
 会ってどうしよう、何を言おうという思慮はない。だが、会いたい気持ちを抑えられなかった。
 彼には奥さんもいて、微笑みながら彼を見つめている。先生はご主人に先立たれて一人暮らしだが、穏やかに余生を送っている。そこに大人になった『少年』の『恋文』が届いた。

 先生は返事を迷った。
(どう応えるべきか……)
会っていいものか……。意味があるのだろうか……。
 その様子を番組では極力言葉を控え、さりげない彼女の日常の動きと表情を追うことで心の苦悩を表現していた。
何日も考えた末、先生は彼と会う決意をする。
「記憶を辿り、その想い出の中で、人は生き直すことができるのではないか……」
本人がカメラに向かって語った言葉である。
 
 『少年』は東京から先生の住む京都へ。想い出を共有する先生と生徒の60年ぶりの再会が果たされ、画面からも温かなものが感じられた。
 60の長い歳月は少年にとって空白ではなかったのだろう。時の流れの水底に密かに面影を潜ませていたのかもしれない。先生も過ぎ去った時間に言い知れぬ潤いが沁み込んでいく温もりを感じていたにちがいない。だからこそ「生き直す……」想いが芽生えたのだ。
 やさしく漂うような2人の心のふれあいはほのぼのと私の心をそよ風のように揺らした。しかし、私が好感をもって観たのはここまでだった。

 以後、彼は度々京都を訪れる。そして先生との時間をゆったりと過ごす。もちろん、どろどろしたものはない。
 路地を歩き、あるいはお茶を飲みながら静かに語らう姿が京都の町並みの情景とともに映し出される。ときおり2人の会話が周囲の自然音を含んで聴こえてくる。ほのぼのとした雰囲気である。

 私はシコリのような想いを感じながら画面を観ていた。ふと、彼の奥さんの気持ちを考えたのである。
 彼の自宅の映像では京都行きの支度をする夫に微笑みを注いでいる。
『初恋の先生によろしく……』
2人逢瀬をおおらかに見守っているように見える。だが、本心はどうなのだろう。
 懐かしさを越えて『恋文』を書き、受け入れた相手に会いにいくのである。2人の年齢を考えると微笑ましいというべきなのかもしれないが、もし逆の立場だったらどうだろう。つまり、奥さんが初恋の男性教師に会いに行くとしたら、夫は笑って見送ることが出来るだろうか。……
 彼は自分の込み上げる想いを当然のように押し出しすぎてはいないだろうか。彼の一途な行動に奥さんは傷つくことはないのか。また、一人暮らしの先生が寂しさから恋文に心惹かれた心情は理解できるものの、奥さんに対する配慮が欠けていはしまいか。何より、「想い出の中で生き直す」と言った先生の亡くなったご主人との人生は何だったのか。様々に複雑な想いが巡った。

 以前、美智子皇后が詠まれた歌を目にしたことがある。いつ頃のものかわからないが、悩んだ末に皇室に嫁いでからのものである。
『かの時に 我がとらざりし分け去れの 片への道はいづこ行きけむ』
選ぶことのなかった分かれ道の片方には別の人生があったが、行方は誰も知らない。

 過ぎ去った歳月は還らない。選んだ道が人生である。先生は、想い出の中で生き直す……と心を決めたが、想い出は記憶の中に漂うものだという気がする。誰しも想いを伝えられなかった切ない面影をそっと抱いていると思う。今回の話は同窓会で旧友と再会するのとは意味がちがう。再会はともかく、頻繁に通うべきではなかった。心の奥底に大切にしまっておいたほうがよかったのではないだろうか。
 
 

 


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