DILEMMA-1
深夜のファミレスで、美香は大きく息をついた。
大好きなヴァンホーテンのアイスココアも、今はグラスの底に指一本分くらいしか残っていない。溶けた氷が音をたてて崩れる。
客は自分の他にカップル一組と、勉強に励む大学生(のように見える)が一人しかいない。
時計を見る。
もう、四時間ここにいる。いい加減に帰ろうか。携帯に彼からの連絡はない。自分から呼んでおいて、これで三回目だ。
仕方ないのか、医者は。妻子持ちだし。若いし。
大学の看護学部に通っている美香は、たまたま、感染と免疫の講義で特別講師としてやってきた田村に一目惚れをした。
田村は大学の付属病院の医師をしていて、たしか消化器外科だったか。
美香は講義のあと直接彼に連絡先を聞いて、左手の薬指に指輪をしていたから結婚しているのは知っていたが、二ヵ月かけて口説き落とした。
その彼と、今日の仕事のあと会う約束をしていた。
でも、待ち続けてもう、四時間。
いい加減、潮時なのかもしれない。
今日だけじゃなくて、この恋自体が。
医者だし、お金があるからきっと他にも遊んでる。何より妻子がいて、これは不倫で、絶対に報われない。
きっと今日も、誰かよく分からない患者の容体が急変して…そういう言い訳を聞かされるんだ。
よく分かってる。
自分も将来は看護師だし、相手は医者だし。
田村が話す医学的な言い訳も、拙い看護の知識からでも理解できてしまうから、信じるし、納得する。
ただ、そうやって、きっと何か騙されている感覚になるのも確かだけれど。
溝は少しずつ深くなっていく。
そもそも不倫の恋に、信頼関係なんてない。
それでも、期待してしまうんだ。
それなのに、寂しくて、満たされなくて、優しくしてくれる他の男に逃げてしまうんだ。
テーブルの上に置いた携帯に手をのばす。
着信履歴に、中野拓巳の名前を見つけて発信ボタンを押した。
『…どうした?こんな時間に』
数回の呼び出し音のあとに眠そうな拓巳の声が聞こえてくる。
「…迎えにきて」
『……どこ?』
「大学のそばの、ファミレスに」
今行く、と言われて電話は切れた。
美香は携帯を見つめ、ごめんねと呟いた。
拓巳の気持ちを美香は知っている。それを美香が利用しているということを、拓巳は知っている。そしてそのことに、美香は気が付いている。
友達の由佳里のために行った飲み会で、救われたのは美香自身だった。
そこで知り合った拓巳と意気投合し、酔っ払って、由佳里にも話さなかった不倫の話を拓巳にペラペラと喋り、記憶が途絶え、目が覚めたら裸で拓巳の部屋にいた。
その日は一日中、拓巳と過ごした。
自分を、時間に関係なく抱き締めてくれる腕を愛しく感じた。
けれど余計に、自分の中の虚無感と寂しさに気付かされた。
不毛の恋に、自分は一体何を費やして、どれほど満たされていないのかを思い知らされるのだ。
そうして涙を流した美香に拓巳は何も言わずに、ただ頭を優しく撫でてくれた。
その甘い蜜欲しさに、今日も彼を呼んでしまった。
田村には望めないもの。
自分が欲しいもの。
きっと、拓巳の腕の中にはそれが沢山つまっている。