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男は双眼鏡で向かいのマンションを覗いた。
レースのカーテンが視界を遮る。ちっ。男は舌打ちすると上着のポケットからタバコを出してくわえた。
「灰皿、ありますか?」
男は双眼鏡を構えたまま振り向かずに言った。
「あの。うちは誰もタバコを吸いませんから。私が喘息なんです、吸わないでください」
島村佐枝子は恐る恐るそう言った。
「窓空けときゃいいでしょう。空き缶とかないですか」
男の声が苛立ちを含んだのを悟って、佐枝子はキッチンへ向かいツナの空き缶を持ってきた。
「ちょうどいいや。あんた、隣の部屋に行っててくださいよ。そう後ろでうろうろされちゃ、気が散って仕様がない」
「いえ、でも……」
「目を離した隙に私がなんか盗むとでも?」
「いえ、そんな」
「こっちも仕事なんでね。ご協力願いますよ、奥さん」
ちらと振り向いた男の目が暗く陰湿で、佐枝子は無言でリビングを離れた。
男は背後でドアが閉まる音を聞くと、タバコに火をつけゆっくりと吸った。
佐枝子は落ち着かず、寝室のベッドに座ったり立ったりを繰り返した。あの気味の悪い男はいつまでいる気だろう。
買い物に出たいが、他人を部屋に置いたまま出かけるなんてできない。
壁に耳を付け、リビングの様子を伺うが物音ひとつしない。
今朝のことだ。
朝食を終え、のんびりTVを見ていた時ドアチャイムが鳴った。
居留守を決めこもうと無視していたら、連続でチャイムを鳴らされた。どうしよう、と考える間もなくドアを叩かれた。
「島村さん、いるんでしょう?空けてくださいよ」
ドンドンドンドンドン!!!
彼女は慌てて椅子にかけてあるカーディガンを羽織って玄関に向かった。
「どちら様?」
チェーンをかけたまま、少しだけドアを開けた。
黒っぽいスーツを着た男が立っていた。
「島村さん?」
「そうですけど。どちら様?」