狂乱のあと-1
一直線に伸びた鋭い光芒が漆黒の夜空を切り裂いていく。
足回りの強化されたGTRは、深夜の峠道を力強く駆け上がっていた。
左に岩木山、右に八甲田連峰が見える。
八甲田は、明治の終わりに青森歩兵第五連隊が遭難した、いわゆる八甲田雪中行軍遭難事件の舞台となった悲劇の山である。
1902年、対露戦に備え第8師団歩兵第5連隊は冬期のソリによる物資輸送についての検証を行うために総勢210名の隊員を要し、一泊二日の予定で青森から八戸間の雪中行軍を実施した。
わずか一泊の行程ではあったが、途中吹雪に遭遇し、豪雪地帯に不慣れであったことや見積もりが甘かったことなどから、やがて隊は進路を見失い、迷走した挙げ句に退路まで見失って、最終的には199名が凍死するという、世界でも類のない山岳史上最大の遭難事故に発展した。
雪に埋もれていた遺体は完全に凍りつき、慎重に運ばなければ粉々に砕けたというのだから、どれほどの極寒の中で彼らが彷徨っていたのか容易に想像がつく。
死亡の主な原因は凍死であったが、中には崖から転落して亡くなったものや体力不足により力尽きて倒れたもの、そして、意外と多かったのが発狂して川に飛び込み溺死したものだった。
厳しい軍規の中で鍛えられ、強靱な精神力を養っていたはずの彼らが、発狂するまで精神を追い込まれて、凍てつく極寒の川に自ら裸になって飛び込んだというのだから、どれほど過酷な状況に置かれていたのかは想像に難くない。
タカの見つめる先で真っ黒なうねりとなって大きく横たわる山脈は、そんな悲劇の舞台となった山だった。
星ひとつない夜空の下に伸びる黒い巨影は、見る者によっては勇壮で神秘的な光景として映るのかもしれない。
しかし、あそこには寒さの中で彷徨い続けた歩兵第5連隊の怨念が、今も帰路を求めて彷徨っているかもしれない。
そう考えてしまうと、タカには、その山影が自分たちを待ちかまえる不気味な黒い影にしか見えないのだった。
一路青森を目指してから、すでに6時間強。
敵の本拠地に近づきつつあった。
これから、もうひとつの怨念と闘うことになる。
執念で自分の娘を奪っていった男。
そいつから、もう一度娘を奪い返す。
目的地は目前に迫っていた。
もうすぐ、シホに会える・・。
進路を北へ北へと向けていた。
眠気覚ましに開けたわずかなウインドウの隙間から流れ込む外気が一段と冷たくなった。
震えるほど寒さは感じないが、やたらと腹が冷える。
「閉めようか?」
寒さが気になり、助手席で顔をしかめていたシゲさんに訊ねた。
シゲさんは、首を横に振るだけで声を出さなかった。
胸の痛みのためか、ずっと苦渋の表情を浮かべている。
渋面を作っているのは、おそらく痛みのせいばかりではない。
表情に、苦々しさがにじみ出していた。
あの襲撃事件から二日が経っていた。
あれほど警戒していのに、シホをまんまと奪われた。
シホだけではない。
シゲさんは左のあばらを二本持っていかれ、シノちゃんは買ったばかりの新車を奪われていた。
コトリを襲った大男ふたりは、エンジンの掛けっぱなしになっていたシノちゃんの軽乗用車をどさくさに紛れて強奪し、逃走に利用した。
その車両が発見されたと青森県警から連絡が入ったのは昨日のことだ。
「タカさん、私が替わりますから少し休まれますか?」
所有者であるシノちゃんが引き取りに行くことになり、足のない彼女をタカが愛車で送ってやることになった。
無論、そんなことは建前であり、3人は奪われたシホを奪還するべく、敵の本拠地へと向かっているところだった。
深夜のせいか東北自動車道の下りにそれほど車はなかった。
順調な長距離クルーズに、今のところ疲れはそれほど感じない。
「大丈夫だから気を使わなくていいよ、シノちゃん。」
苦渋の表情を浮かべる重丸とは対照的に、タカは思いの外、表情に明るさがあった。
確かに、シホを奪われてしまったことに後悔がないわけではない。
だが、要は再奪取すればいいだけの話しである。
シホの居場所はすでにわかっていた。
あとは、そこへ向かって彼女を取り返せば、それですべてが終わる。
単純な性格をしているだけに行動原理が明確になってしまえば、突き進むだけしか知らない男にさほどの憂いはなかった。
まさしく獲物を見つけた鷹のごとく、ぎらつく瞳は前だけを見つめている。
ハンドルを握る手が汗ばんでいたのは、学生の頃から闘いに明け暮れ、鍛え上げてきた肉体が、敵の近づいたのを察知して昂揚しているからだ。
汗は手のひらだけでなく、脇の下や背中の一部からも吹き出している。
決着のときは、刻一刻と近づいていた。
火照った身体から吹き出す汗が止まらない。
しかし、腹だけは・・・異様に冷えてならなかった・・・。