狂乱の夜-30
血液が沸騰している。
沸騰しすぎて網膜が赤く染まり、見るものすべてが血に塗れているような気さえする。
重丸の叫びに、和磨が、しょうがねえな、といった顔をした。
表情は、にやついたままだった。
和磨には重丸の娘など、どうでもいいことだった。
だから、彼は無慈悲に答えることができた。
「もう、いねえよ……。」
あっけない答えだった。
「やっぱり……やっぱり、お前のところに居たのか?……。」
声が震えた。
声だけじゃなく、手足が震えた。
愛してやれなかった幻の娘が、まさか、かつての友の所にいたとは。
しかも、欲望の捌け口とするための道具とされていたとは。
きっと、そうなのだ。
ツグミがさせられていたのと同じ事を、和磨は、志帆にも強いたのに違いないのだ。
だから、ツグミは事実を伝えることができなかった……。
「いない、とは……いないとは、どういうことだ!?」
声は震えたままだった。
志帆は生きていた。
その事実だけで驚愕に値した。
生きていて欲しいとは望んだ。
だが、あまりにも情報が乏しすぎた。
生きている痕跡がなさ過ぎた。
あきらめたくはなかったが、あきらめざるを得ない状況がずっと続いていた。
だから、重丸は志帆をあきらめた。
しかし、あきらめることができたおかげで、ツグミを「志帆」として蘇らせることができた。
志帆は捜索願を出されていたが、「失踪宣告」はされていなかった。
つまり法的には、まだ生きていた。
居住の実態がなければ住民票は消えるが、死亡が確定しないかぎり戸籍は復活する。
ツグミと入れ替えることで志帆を蘇らせることは可能だった。
10歳ほどの歳の開きはあったが、女性の見た目ほど誤魔化しの効くものはない。
化粧をしてしまえば年齢など幾らでもごまかせる。
現にタカはまったく気付いていなかった。
戸籍さえ復活すれば、そこにコトリを紛れ込ませることは、役所勤めの重丸には造作もないことだ。
不正には違いないが、ひとを助けるための不正だった。
人の世は、ときとして悪が必要となることがある。
必要だからこそ、人類発祥から悪が消えたことは一度もないのだ。
重丸には重丸の価値観と倫理感があった。
そして、己の信じた価値観と倫理感に従い、ツグミを志帆として生き返らせた。
志帆が死んだとあきらめたからこそ、可能となった入れ替えであった。
「やっぱり……やっぱり志帆は、生きていたんだな!!!」
だが、志帆は生きていた。
そして、目の前の男が、その所在を知っている。
「いっちゃんよ……、そんな死んでんだか生きてんだかわかんねえ娘よりも、もうひとり立派な娘がいるじゃねえか?欲かかねえで、そこで大立ち回りしてるお転婆娘だけで我慢しておけよ。なかなか立派な娘なんだろう?べっぴんさんだし、頭だっていい。市長さんに花束までくれてやることのできる娘なんて、そうそういねえぞ……。
そんないい娘がいるんだからよ……、欲かいて他人様の娘まで盗るんじゃねえよ……。」
「そんなことは聞いてない!志帆をどこにやったと聞いてるんだ!!!」
「しほ、しほって、うるせえんだよ。そんなに大事なら鎖に繋いで飼っとけ……。ああ、鎖に繋がれてたっけな……。もっとも、飼い主は俺じゃねえけどな……。」
「き、貴様ぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」
怒りに我を忘れた。
まんまと和磨の挑発に乗せられた。
重丸は怒りにまかせたまま飛び込んでしまった。
上段からの面一線。
冷静さを失った男が、この肉体を凶器と化していた男に適うはずがなかった。
「ぐぅっ!!!」
和磨の拳が、がら空きになった脇腹に深々とめり込んでいた。
重丸のすぐ横に、和磨の顔があった。
「さっきのは撤回するわ……。老いたな……。こんな挑発に乗るとは……。」
顔色ひとつ変えず、耳元でささやいた。
「ぐはっ!!!」
一瞬で、意識を断ち切るほどの強い衝撃。
意識を切られなかったまでも、もはや、重丸に反撃する力はなかった。
その場に膝をついてくずおれそうになった。
「し、志帆は……志帆は……どこに……いる?……。」
執念が、重丸に膝を突かせなかった。
なんとか和磨にしがみついて昏倒することだけ免れた。
志帆に対する思いだけが重丸の意識を繋いでいた。
だが、そんな重丸に和磨は冷たい目を向ける。
「知らねえよ……。」
スーツを掴んでいた重丸の手を和磨が握った。
その手を引き剥がしただけで、いとも容易く重丸はその場に倒れた。
倒れた重丸を和磨は冷たい目で見おろしていた。
重丸に意識はなかった。
渾身の一撃だった。
和磨はしばし、その場に立ちつくした。
向こうでは、まだトリヤマたちが大立ち回りをやっている。
遠くからはサイレンの音も聞こえていた。
それは間違いなくこちらへと近づいている。
誰かが通報したらしい。
これだけ騒げば、通報もされる。
粛々とやるはずだったのが失敗した。
だが、襲撃そのものが失敗したわけじゃない。
やれやれ……。
和磨は、きびすを返した。
一歩踏み出して立ち止まる。
振り返った。
倒れる重丸を見つめた。
そこには昔となにも変わらない顔があった。
「心配すんな……生きてっからよ……。」
意識の切れた重丸に、その声が届いたかはわからない。