遠き日々-9
シンドウは交換条件を出さなかった。
重丸が止めたからだ。
本当なら、子供に会わせる代わりに事件の全容を証言させることも可能だった。
あのミコシバからは、いつになったら証言が取れるんだと、矢のような催促も来ていた。
「ああまでして隠そうとしたんだ。よほど恐ろしいことか、なにか都合の悪いことではないかな?
ならば、それを無理に聞き出しても、どこに嘘が潜んでいるか見つけるのは難しい。
ならば、彼女が自発的に話すまで待ったほうがいいと思うよ。」
人生の大先輩であり、尊敬する師匠でもある重丸にそういわれたのでは従うしかない。
もっとも反対するつもりもサラサラなかったのだが……。
「そうですよね!さすが重丸先生です!やっぱり相談してよかった!
あの子たちを養護施設に預けるとなったとき、すぐに先生を思い出しました。
先生が児相にいてくれたおかげで助かりました!
また、すぐにお世話になると思いますが、その時もよろしくお願いいたします!」
シンドウにとって重丸は神だ。
その神がいうことに逆らうつもりなどまったくない。
「難しそうな案件だから、今後はうちと二人三脚でやっていこう。
取りあえず一番大事なのは、あの子たちをこれ以上不幸にさせないことだ。
僕はそれだけを考えるから、できるだけ君も協力してくれ。」
児相職員たちの熱にほだされ、重丸もこの職に本腰を入れ始めた頃だった。
保護対象の少女は、殺人未遂の容疑が掛けられ、おまけに売春の疑いもある。
こんな年頃の女の子が自発的に売春をするとは考えられない。
裏には何か大きな闇が潜んでいるのではないか。
その闇から、なんとしてでも彼女を救い出さなければならない。
それが自分の使命であるとさえ重丸は信じていた。
「コトリ……コトリ……。」
少女に笑顔が戻っていた。
無償の愛とは、こんなことをいうのかもしれない。
赤ん坊を腕に抱きしめたときの彼女の表情がシンドウには忘れられない。
まだ胸も膨らみきらない少女だった。
その彼女が、赤ん坊を抱いた途端、菩薩のような慈愛に満ちた表情で笑ったのだ。
それはきっと、母親にしかできない笑顔だったろう。
少女はずっと愛しそうに腕の中に抱いた我が子の頭を撫でていた。
「コトリちゃんていうのかい?」
シンドウが問いかけた。
「うん……」
言葉も戻り始めていた。
簡単な受け答えならするようにもなった。
「幾つなの?」
「1歳……。」
やはり医師の見立ては正しかったことになる。
「ところで、君は幾つになるんだい?」
まだ胸も膨らみきらない少女だ。
その彼女が子供を産んだ。
それも一年前にだ。
「いいたくなければ、いわなくてもいいんだよ。」
隣りで聞いていた重丸が引き取った。
少女の顔から笑みが消えていた。
無理に聞き出したのでは意味がない。
真実の裏に紛れ込む嘘を見つけるのは難しい。
「じゃあこうしよう。君の誕生日だけでも教えてくれないかな?」
無理強いをするつもりはなかった。
しかし、今後のためにもできるだけ情報は拾っておきたい。
生年月日からでも、ある程度なら身元を割り出せる可能性がある。
重丸の質問に、少女は何かを考えるように唇を噛みしめていた。
「無理にとはいわないけれど……、教えてくれると嬉しいんだけどな……。」
重丸の声音は優しい。
その優しさを確かめるように、少女はじっと重丸を見つめていた。
まるで瞳の奥まで覗くような見つめ方だった。
「7月……」
「ん?」
「7月……22日……。」
まだこの時は、偶然としか思っていなかった。
「7月22日か。いい誕生日だね。そうかぁ、7月22日なんだ。」
重丸にも、この日付には覚えがある。
決して忘れることのできない思い出の数字。
「この日が、なんの日か知ってるかい?」
この意義ある日の由来を知らないならば教えてやりたい。
そう思った。
「マリア様の日……。」
「え?ああ……、よく知ってるね。」
そう、7月22日はキリスト教徒の祝日。
マリアを祝う日。
「でもね、聖母マリアじゃないんだよ。このマリア様はね……。」
「知ってる。マグダラのマリア……」
教えるよりに先に少女は答えた。
じっと重丸を見つめていた。
そこで初めて、重丸は違和感を覚えた。
彼女の瞳が、何かを訴えているように思えたからだ。
「君、名前はなんていうの?」
重丸の表情から笑みが消えていた。
「重丸先生?」
シンドウも重丸の微妙な変化に気が付いた。
重丸の目つきが厳しくなっていた。
「君の名前を教えてくれないか?」
急くような問いかけだった。
さっきまでの穏やかさが表情から消えている。
少女は、じっと重丸を見つめたままだ。
「いいたくないなら、無理に答えなくてもいいけど、できれば教えてくれないかな?名無しのゴンベちゃんじゃ困るでしょ?」
ただの偶然かもしれない。
だが、どうしてか心が乱れる。
なんとかしてこの子から名前を聞き出したい。
願いが通じたのか、かすかに少女の口が動いた。
「シ……」
聞き取れないほど小さな声だった。
「え?」
もう一度訊ねた。
今度は力強く少女は答えた。
「シホ。」
重丸は息を飲んだ。
同じ名前などいくらでもいる。
だが、誕生日まで一緒では無視できない。
しかも、この子はその由来まで知っている。
7月22日。
それは忘れもしない、キリストの復活を見届けたマグダラのマリアの聖名祝日。
そして、復活することのできなかった幻の娘の生まれた日だった。