遠き日々-8
「さっき見てきたけど、相変わらずいい飲みっぷりだったよ。ゴクゴク飲んでた。ほんとに食いしん坊な赤ちゃんだよね。」
笑いかけてみても少女の表情は変わらない。
かまわなかった。
あの子の近況を毎日教えてやる。
それが、この娘にどんな変化をもたらすのか。
それを確かめてみたかった。
少女に対する調べは、毎日続けられた。
氷のような冷たい表情は、一度として変わることはなかったが、限界は近いとシンドウは予測していた。
すぐ身近にいるにも関わらず、この子はずっと娘に会えないでいる。
男を刺してまで守ろうとした娘だ。
我が子であるならば、会えないのが一番辛い。
能面のような表情で取り繕っていたが、内心は穏やかでないはずと踏んでいた。
いよいよ10日も過ぎた頃に、頃合いと見計らったシンドウは仕掛けてみることにした。
「今も赤ちゃんを見てきたよ……。」
目の前にいる少女はいつもと変わらなかった。
ベッドの上に上半身だけを起こし、両手の指を軽く組みながら、無表情に光のない瞳を伏し目がちに落としているだけだった。
シンドウは、少女の顔だけを見ていた。
「ぐっすりと眠っていた。今日もたっぷりとミルクを飲んだそうだ……。」
ゆっくり話した。
窓から差し込む柔らかい日差しが、少女の頬を照らしている。
「でも、とても残念なことがある……。」
毎日、あの子の様子をいって聞かせた。
そろそろ限界になっているはずだ。
まだ、表情は変わらない。
「今日で、あの子ともお別れすることになった……。」
かすかに少女のまぶたが動いた。
シンドウは見逃さなかった。
「明日からは、あの子に会えなくなる……。」
初めて反応が現れた。
落としていた視線が、ゆっくりとシンドウに向けられる。
「あの子は、施設に預けられることになった……。」
シンドウは、向けられた眼差しを正面から受け止めた。
きっと、この子は堪えられない。
姉妹であるなら、離ればなれにされても今の環境よりはマシな生活になることを甘受できるかもしれない。
だが、母親なら別だ。
自分の胎内で育て、分け与えた命を切り離される痛み。
その痛みに堪えられる母親など、居はしない。
「いずれ、どこかの夫婦に養女としてもらわれていくことになるだろう……。」
少女の口は相変わらず閉じたままだった。
だが、彼女の瞳が嫌だと訴えていた。
ガイシャを滅多刺しにしてまで守ろうとした赤ん坊だった。
その子と引き離される。
それが我が子であるなら堪えられるわけがない。
「そうなれば、二度と君に会うことはできない……」
鼻の頭が赤くなり、見る見るつぶらな瞳に涙が滲んでいった。
「あの子に会いたいか?……」
シンドウの問いかけに、少女は唇を噛みしめた。
じっと見つめたままだった。
あどけない顔は、天使のように愛らしい。
その愛らしい顔の上を、大粒の涙がぽとりぽとりと落ちていく。
「君の、子供なんだな?」
少女は唇を噛みしめたまま目を閉じた。
観念したかのように、唇をきつく結んだまま、小さく頷いた……。
「あの子に、会わせて……」
弱々しい、か細い声でそれだけをいった。
あれほど感情を見せなかった彼女の瞳に光が戻っていた。
この子は壊れていたわけじゃない。
何かを隠していただけだ。
10日もの間、なんの感情も見せず、ひと言もしゃべらず、ひたすら無表情を続けるなんて精神崩壊者でもやりはしない。
確固たる意志がなければ、できることではないのだ。
少女の返事を確かめてシンドウは後ろを振り返った。
ヒントを与えてくれた銀縁メガネの男が、病室の壁にもたれながらシンドウを見つめて大きく頷いた。