遠き日々-19
最初から、わたしたちは父の手のひらの上で踊らされていただけなのだ。
父には、初めからなにもかもすべてお見通しだった。
久しぶりにシンドウに付き添われて、取り調べのために署を訪れたときのことだった。
シンドウがちょっと席を外した隙に、あの男は入ってきた。
ミコシバだった。
顔が青ざめていた。
「この日に迎えに行くそうだ……。仕度して待っとけとよ……。裏の木戸口のところだ。そこからお前とあの赤ん坊を連れだすとさ……」
日付と時間の書かれたメモを渡された。
「どうして、あなたが?……」
信じられなかった。
味方だとずっと思っていた。
ミコシバは苦渋の表情を浮かべていた。
「俺だって定年が近えんだ……。それに家族だって……」
そこまでいって彼は口を噤んだ。
わたしにはすぐにわかった。
きっとこのひとの家族に父が何かをしたのだ。
「脅されてるの?」
苦々しい顔でミコシバは奥歯を噛みしめた。
「定年後は孫娘と一緒に暮らしたいだろう……だとよ。
あのクソ課長もお前らのショーバイに一枚噛んでたとはな……。
どおりでボロを出しやがらねえはずだ。
あのクソ課長がすべて情報を流してやがった。
野郎は俺のこともすべて知ってやがったよ。
お前らのことだって最初から向こうに筒抜けだったのさ……。」
「じゃあ、わたしたちがあすなろ園にいることも?」
「ああ、奴はあの施設に火を付けてでもお前を奪い返すそうだ。」
足が震えた。
父ならば、やりかねなかった。
結局わたしたちは、父の手のひらの上で踊らされていただけなのだ。
「おめえが素直に帰れば、施設には手を出さないそうだ。だが、拒めばあそこは地獄になるぞ……。」
足だけじゃなかった。
唇までもが震えていた。
「自分で決めろとよ。素直に帰れば許してやるそうだ。拒めばその時は……どうなるかは自分で考えろ……。」
苦々しい顔だった。
それはわたしを恨んでいるというよりも、すべてを恨んでいるといいたげな顔だった。
「何を……されたの?」
父がこのひとの家族に何かをしたであろう事は薄々わかった。
「ああ?なにをだと?別に何もされちゃいねえよ。
ただな、あのクソ課長からこういわれたのさ。
お前にも生まれたばかりの孫娘がいるんだから、あのクソガキがその住所を知ったら大変なことになるぞってな。
オメエに刺されたあのガキだよ。
俺は野郎が入院した病室でもねちねちとやったからな。
野郎もさぞ恨んでたんだろうよ。
あからさまに俺を罵りもしやがった。
でっち上げまでして野郎をぶち込もうとしたのに、それにも失敗して、結局無罪放免になっちまいやがった。
まったく政治家ってえのは恐ろしい力を持ってやがるもんだ……。
たんなる被害者になっちまったんだから拘束なんてできるはずもねえ。」
彼の肩が震えていた。
「俺だけなら、どうなったってかまやしねえ。だが、孫だけは駄目だ。
あの子だけは絶対に駄目だ。地獄なんか見せられるわけがねえ……。
お前の赤ん坊みたいにさせたくねえんだ!」
恨みに血走った目で睨まれて、わたしは息を飲んだ。
「あのガキが無罪放免になってすぐだよ。
トリヤマって野郎が俺の前に現れて、テメエを逃がすための手引きをしろとよ。
おとなしくいうことを聞けば、あのガキを孫には近づけねえと約束した。
あのガキが無罪放免になった時点で俺は負けてんだよ。
俺に選ぶ答えなんか残されちゃいねえのさ。」
彼が自嘲気味に笑ったのは、自分の無力さを呪ったからかもしれない。
「わかったら、おとなしくその日付にあの園を出ろ。そうすりゃすべてが丸く収まる……。」
彼は、最後までわたしの目を見なかった。
「恨んでもらってもかまわねえよ……。だがな、薄汚れちまったオメエよりも、俺は孫を綺麗なまま守ってやりてえんだ……。それだけは、わかってくれ……。」
ずいぶんとひどいことをいう。
でも、その時のわたしは、彼を恨む気持ちにはなれなかった。
「おじさん。トリヤマに伝えて。約束の日にわたしは園を出るわ。その代わり……。」
父に会いたくなかったかといわれれば嘘になる。
確かに、もう一度可愛がってもらいたい気持ちは強かった。
でも、その時のわたしは、そんなことよりも違うことを考えていた。
結局、父からは逃げられない。
ならば、従うしかない。
おとなしく従う代わりにひとつだけ交換条件を出した。
それを父が呑むかどうかは、賭けだった。