遠き日々-11
『マリア様の誕生日?』
小さなときにさらわれた彼女は、聖名祝日を誕生日と勘違いしていた。
『うん。でも聖母マリア様じゃなくてね、マグダラのマリアのほうよ』
『マグダラのマリア?』
『そう。マグダラのマリアはね、キリストの復活を見届けた女性といわれているの。キリスト、つまりイエス様が本当に愛した唯一の女性ともいわれているのよ。』
『そうなんだ。』
自分のことはあまり覚えていない彼女だったけれど、誕生日の由来だけは、はっきりと覚えていた。
母親から、絶対に忘れてはならないと、ずっといわれていたのだという。
『マグダラのマリアはね、愛してはならない人を愛してしまい、イエスの子供を産んだともいわれているの。それが聖杯伝説につながるんだけど、わたしも同じなのよね。』
『どういうこと?』
『わたしね、お父さんがいないの。お母さんが愛しちゃいけない人を愛してしまって、それでわたしができちゃったんだって。』
『じゃあ、お母さんのこと恨んでるの?』
『ううん、まさか。もう、はっきりとは覚えていないけれど、大事にしてもらった記憶があるわ。いつかお父さんに会わせてくれるって約束してくれたけど、でも……。』
彼女は涙ぐんだ。
『もう、お父さんに会えなくなっちゃった……。』
『どうして?』
『こんな汚れちゃった娘なんて、お父さんいらないよ。』
彼女は泣いた。
子供のように泣いた。
いつも笑顔を絶やさなかった彼女が、声を上げて泣きじゃくる姿を見たのは、そのときが初めてだった。
『お父さんに、会いたかった……。』
大粒の涙を流しながら、そういった彼女を見つめて、わたしは心底お父さんに会わせてあげたいと思った。
だから、彼女とあまりにも似た目をする銀縁メガネの男が、もしかしたら彼女のお父さんかもしれないと思ったときは、少しだけ心が揺れた。
けれど、わたしはその考えを自分の中で打ち消した。
彼女は暖かいところで生まれたといっていた。
だったら、こんな北の寒いところに、あの人のお父さんがいるわけはない。
『向こうから、連絡してきたのさ。』
シホお姉ちゃんがThrushへ来た理由をわたしは知っていた。
『女が邪魔だったのさ。』
父が教えてくれたのだ。
彼女は小さな頃にさらわれてから、以来、ずっと男のオモチャにされてきた。
押し入れの中に閉じ込められ、そこから出されるときは必ずセックスを強いられ、それを撮影したビデオを売ることで、男は生活の糧を得ていたという。
小心で卑屈な男だったけれど、それだけに用心深く、逃げるように転々と引っ越しを繰り返したそうだ。
『どうして逃げなかったの?』
シホお姉ちゃんに聞いてみたことがある。
外に出るチャンスがあったのなら、逃げ出すことはいくらだってできたはずだ。
でも、彼女は逃げられなかった。
『ずっと暗い部屋の中で暮らしているうちに、外の世界が怖くなってしまったの……』
自分でも呆れたように笑っていた。
部屋に鍵を掛けたりしなくても、彼女は逃げだすことができなかった。
どれほど年齢を重ねて大人になっていっても、それは変わらなかった。
逃げだすことができないままに男との生活を続け、その間も引っ越しを繰り返した彼女たちは、10年以上の歳月を掛けてこの地にやってきた。
そして、ある日突然、彼女は父に売られたのだ。