旅の始まり-12
<PM1850 またまたまたまたまた自宅アパート>
シゲさんは、すぐにやってきた。
なぜ、わかる?
「お前、しばらく役所に来なくていいぞ。」
はぁ?
のっけから右ストレート。
小さなテーブルを、はさんで向き合っていた。
テーブルの上には、麦茶のコップ。
「まだ、仕事が残ってるんだ。お前に話すだけ話したら、すぐに戻らなけりゃならん」
ウイスキーでも出そうと思ったら、そう言って、シゲさんは遠慮した。
ほんと……気の毒なくらい忙しい人だ。
今日も、渋いスーツで決めている。
「どういうこと?」
いきなり「来なくていいぞ」と言われて「はい、そうですか」と答えるバカはいない。
「言った通りの意味だ。お前は、明日から登庁しなくていい。課長の野呂さんには、オレから事情を説明しておいた。」
「事情って?」
「お前を、オレの下でしばらく使う、ってな。」
シゲさんは、本来ならオレがタメ口きけるような人じゃない。
はるか上の上司で、紛れもない殿上人だ。
同じ課長職でもポストによっては、就ける人と就けない人がいる。
秘書課の課長は、その中でも最高位の職位ポストだ。
シゲさんは、課長ではないが、実質、権限は、秘書課長なんかよりはるかに大きいものがある。
長年の慣習から来る年齢制限が、たんに彼を今のポストに留めているに過ぎない。
その足かせがなくなったとき、シゲさんは、今よりもさらに高い所へ、大きく飛翔する。
ちなみに、野呂課長とは、今朝の電話の相手で、直接のオレの上司だ。
立派な準キャリアだが、とうに出世を諦めて、定年を指折り数える気の毒なジイ様だ。
シゲさんの下で、直接働けるようになったのは嬉しい。
オレがこの世で2番目に尊敬する人物でもある。
だが、野心家であり、策士でもある彼は、何を考えてるのかわからないところがある。
現に、この2日間は、シゲさんの言葉に翻弄されっぱなしだ。
手放しで喜ぶこともできない。
「事情が変わったって言ってたけど、役所に行かない理由は、それに関係あるの?」
「その通りだ。」
「で、役所に行かないで、オレは何をすれば?」
「別に、何もしなくていい。」
出たよ……。
相変わらず、人を煙に巻くのがお好きなようで……。
「何もしなくていいって、どういう事?」
「今まで通り、あのふたりを監視してくれればいい。ただ、事態が切迫してきて、それほど余裕がなくなった。あのふたりを、四六時中監視する必要が出てきたんだ。それを、お前に頼みたい……。」
「四六時中って……そんなの無理だよ……。昨日も言ったけど、片方は勤め人、もう片方は学校に通う女の子じゃ、同時に見張るなんてことできないよ。」
「同時に見張る必要はない。娘の方は、幸い通っている学校が近いし、あそこは防犯意識も高く設備も整っているから、それほど神経を使う必要もないだろう。登下校は、集団が決まりだし、家も近いから途中でひとりになることもない。注意を払うとすれば、家に戻ってからと、学校のない週末ぐらいだ。」
シゲさんの話し方に妙な違和感を覚えた。
「防犯意識とか、ひとりになることはない、とか、なんだかコトリちゃんが誘拐されそうな言い方だけど……?」
シゲさんの目つきが変わる。
鋭い目を向けてきた。
しかし、何かを言いたげな素振りを見せるが、なかなか口を開かない。
思考を頭の中で巡らせてる感じだ。
オレに向けて、指を2本立て、その指を閉じたり開かせたりする。
タバコを吸わないオレの部屋に灰皿はない。
キッチンに行き、缶ビールの空き缶を持ってきて、シゲさんの前に置いた。
シゲさんが、内ポケットからタバコを取り出し、火をつける。
大きく吸い込んでから、大量の煙を吐き出した。
たぶん、コレはシゲさんが考え事をするときのクセなんだろう。
しかし、もったいぶった人だ。
政治家には、こういった演出も必要なのかもしれない……。