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だが、いつまでもその拳はこちらに向かってこない。
そっと目を開ければ、亜衣子がボロボロ涙を流しながら、西条氏の太く短い腕にしがみついていたのである。
「亜衣子、離すんだ!」
「嫌よ、離さない!!」
「まだわからないのか、こんな男と一緒にいたって不幸になるのが目に見えているじゃないか!」
「お父さん! 私は、誠一さんと一緒に居て、不幸だと思ったことなんて一度もなかったわ!!」
その言葉に、一気に辺りが静まり返る。
ただ、西条氏によく似た強い眼差しで、亜衣子がまっすぐ彼を見つめていたのだ。
そんなひたむきな視線が眩しかったのか、西条氏は小さく舌打ちをしつつ、振り上げた拳をそっと下ろす。
すると、そんな亜衣子の瞳はみるみるうちに涙で濡れて、しまいには顔までクシャクシャにしてすすり泣くのだった。
しがみついていた西条氏の腕にもたれかかるように、泣き出す亜衣子。
西条氏は、そのまま黙って下唇を噛んでいた。
「お父さん……、誠一さんってすごいのよ」
「…………」
「昼は工事現場で働いて、夜はコンビニのバイトして、それでも私の家事の手伝いを手伝ってくれるの」
その言葉に、西条氏の眉がピクリと動く。
「もちろん、私が家のことやるからって言っても、“二人でやれば早いよ”って、疲れてるはずなのに一緒にご飯作ってくれたり、掃除も手伝ってくれたり……。誠一さん、本当に一生懸命私のこと守ってくれてるの」
そっと西条氏から身体を離した亜衣子と目が合った。
すすり泣いていながらも、私と目が合うと少しはにかんだ笑顔になった。
瞳を弓なりに曲げて笑うその顔は、泣き過ぎて真っ赤になったこと以外はいつもと同じ、私に向けてくれる笑顔のまま。
そうだ、こうして亜衣子が微笑んでくれるから、私は頑張ってこれたのだ。
微かに握りしめた拳に力がこもる。
「そんな誠一さんがいつもいてくれるから、私もいろいろたくましくなれたのよ?」
こんな時なのに穏やかに微笑む亜衣子を、西条氏は黙って見つめていた。
お嬢様育ちで、ろくに家事なんてして来なかった亜衣子が、今ではスーパーの特売に数多の主婦を掻き分けながら、狙った獲物を手に入れられるようになったこと。
部屋にゴキブリが出ても、一人で退治出来るようになったこと。
給料日までお金が足りない時には、安い食材を駆使して、やりくり出来るようになったこと。
アルバイトで、お金を稼ぐことの大変さを知ったこと。
亜衣子は父親に、それは楽しそうに話すのであった。