急転-1
11
おかしい……。
部屋に戻っていた。
階下にひとの動く気配がない。
いつもなら、晩の食事の時間になるはずなのに、母の声が聞こえない。
タケルは部屋を出て、階段を下りた。
リビングに入ると、ミナがソファに座っていた。
タケルを見るなり、脅えた目を向けて、今にも逃げ出しそうにかまえる。
もう、慣れた。
「母さんはどうした?」
ぶっきらぼうに聞いてみた。
ミナは、化粧をすっかり落とされて、愛らしい顔に戻っていた。
その愛らしい顔が、曇っている。
ミナは、震えるだけで何も答えない。
仕方なしにタケルは、キッチンへと入った。
誰もいなかった。
料理の支度は途中のままで、鍋のふたは開けっ放しになり、まな板の上には、さっきまで使っていたかのように包丁が出されたままになっている。
「ったく、どこへ行ったんだよ……。」
トイレにでも行っているのかと思い、廊下から顔を出して覗いてみたが、トイレには電気がついてない。
小さな曇り窓がついていて、なかにひとがいれば、そこに灯りがみえる。
灯りは、消えたままだった。
浴室や、客人用の和室も探してみたが、どこにも、母の姿はなかった。
「母さん、どこへ行った?」
もう一度、ミナに訊いた。
ミナは、脅えた目を向けながら、首を微かに横に振っただけだった。
どこにもいないのか……。
母が不在とわかって、途端に、タケルのなかでミナへの欲望が頭をもたげていく。
ミナへ近づいた。
タケルの顔つきで、ミナは気付いたらしい。
相変わらず、勘だけはいい。
タケルは口元を歪めていた。
千載一遇の好機だ。
この瞬間をどれだけ待ちわびたことか。
母は、ちょっと買い物に出ただけなのかもしれない。
だが、帰ってくるまでのわずかな時間でも、ミナを苛めることはできる。
募りに募った欲求が、タケルを性急にさせていた。
わずかな時間でもいい。
目の前にいる、あどけない妹を手酷く虐めてやらなければ気が済まなかった。
タケルはゆっくりと近づいた。
ミナが唇を震わせながら、後ずさっていく。
今にも泣き出しそうになっていた。
その表情が、タケルの嗜虐心に火を付ける。
「裏切り者……。」
見つめながら、つぶやいた。
怒りに、はらわたは煮えくりかえっていた。
あれほど期待していたのに、それをミナは裏切った。
ミナの気持ちなど知ったことではない。
与えられるはずだったものを失ったことだけが口惜しい。
あんなに惨めな気持ちになったことは、これまでにない。
タケルを無様な敗北者にしたのは、この妹だ。
だから、徹底的に虐めてやらなければ、気持ちが治まらない。
ミナは震える脚で必死に後ずさっていた。
目の前のタケルは大きい。
迫り来るタケルの迫力に、胸は潰れて、息の止まるような苦しさを覚えていた。
タケルは、ジリジリとにじり寄っていた。
巧みにミナの逃げ道を消して、距離を詰めてくる。
トン、とミナの背中に何かがぶつかった。
壁だった。
それ以上はもう、逃げられない。
タケルが口角を吊り上げる。
悪魔のような顔になっていた。
ミナは、あまりの怖さに、おしっこが漏れそうになった。
「なんで逃げた?……」
タケルの表情は暗い。
瞳に、冷酷な光が宿っていた。
ミナは、必死に首を振った。
違うと、訴えたかった。
「逃げただろ。母さんにもしゃべりやがって……」
タケルは聞く耳を持たない。
無駄とわかって、ミナの歯がカチカチとなった。
それほどの、強い恐怖があった。
「絶対に許してやらないからな……」
声に怒気はなかった。
あえて声を落として、しゃべっている。
それだけに、恐怖はいっそう倍増した。
「こっちへ来い……」
何をいっても、もはやタケルには通じない。
ミナを見据える瞳に狂気さえ感じる。
後ろには壁があり、逃げ道はない。
前には、仁王立ちになったタケルが待ち構えている。
「たっぷりとお仕置きしてやる」
愛らしい顔を、哀れなほどに歪ませていた。
はっきりとわかるほどに唇を震わせ、つぶらな瞳からは大粒の涙を止めどもなく溢れさせていた。
「たくさん虐めてやるから、こっちへ来い……」
タケルは、うっすらと笑っていた。
悪魔の取り憑いた顔は、震えるミナを面白がるように笑っている。
どうしようもできなかった。
ミナは観念したように震える足を前に出した。
声を殺して、泣きむせっている。
可愛らしい顔は、涙と鼻水でグシャグシャになっていた。
何をされるか、ミナは知っていた。
タケルが同じ事をするのは、嫌だった。
だから、タケルから逃げた。
でも、もうどうすることもできない。
ミナは、タケルの前に立った。
無惨なほどに唇が震えている。
涙で濡れる瞳をタケルへと向けていた。
そしてミナは、
両手をゆっくりと前に出した。
タケルに差し出すように伸ばされた腕は、手首と手首を合わせるように重ねられていた……。