【金澤麗】-1
「さて、帰るか」
わたしの夫である金澤雪人がそう呟いた。わたしは、この会社で社長秘書をしている。旧姓坂下、今は金澤麗。社長――雪人さんがネクタイを緩め、襟から抜き取る。そしてボタンを1つ外した。わたしは、彼が仕事を終えて、気を抜く瞬間をセクシーだと思う。付き合う前から、未だにずっと。この瞬間を見ることができるのは、わたしの特権だ。
「麗、帰ろう」
「うん」
わたしも、彼に敬語を使わなくなる。
「すまない、今日は待たせたよな。先に帰っても良かったのに」
「ううん、一緒に帰りたかったの」
雪人さんは照れくさそうに笑って、くしゃくしゃっとわたしの頭を撫でた。そして、少しかがんで、わたしの唇にキスをする。とても幸せだ、と思う。
だけど、この幸せに対して、わたしはわがままな感情を持っている。彼は、籍を入れてわたしと一緒に住むようになってから、わたしを「ここ」――社長室で抱かなくなったのだ。籍を入れる以前は、彼はわたしが抵抗する間もなく、ソファや、デスクにわたしを押し倒していた。
わたしは事実、そのことがとても不安だった。
忙しいわたしたちは、外で会うことはほとんどなく、ベッドで抱かれたことなんか、なかったのだから。わたしはセックスだけでつながっているのではないか、と不安だった。
かと言って、結婚してからセックスレスというわけではない。
わたしがあまり疲れてないような日を見計らって、わたしを誘ってくれる。
結婚してから、彼はわたしに気を遣ってくれているのがよくわかった。
雪人さんはわたしの体を知り尽くしているから、ベッドの上で抱くときは、とても丁寧だ。
社長室での行為のように、乱暴な言葉をかけることもない。少しくらいならわたしが恥ずかしがるようなこともするけれども。だけど、ベッドの上で抱かれるようになってから、わたしは社長室での行為を望んでいたということに改めて気付かされたのだ。まるで初めて、無理やり抱かれた時の衝撃のように。
わたしは雪人さんになら、社長室でされてもいいと思っていたのだ。
「俺、先にシャワー浴びてもいいかな?」
外で軽くご飯を食べて、家に帰ってきた後、リビングでジャケットを脱ぎながら雪人さんは言った。
「麗はお湯つかる?お湯、ためておこうか?」
「わたしも今日はシャワーでいいかな。疲れちゃった」
ここで、一緒に入る?と言えたらな、と思う。
そんな簡単なことが言える関係になる前に、わたしは、雪人さんと社長室でセックスをしすぎてしまったのではないかと思う。
そして、わたしの疲れちゃった、という一言で彼はわたしに気を遣って、多分ちょっかいは出してこない。雪人さんがバスルームに向かって、わたしひとりになったあと、大きなため息をついた。
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「麗?開けるよ」
コンコン、とドアをノックする音がした。
わたしはジャケットを脱いだだけという格好で、椅子に座りながらパソコンをちょうど立ち上げたところだったので、立ち上がる。
「はい」
ドアが開く。髪をタオルで拭きながら、Tシャツに黒のスエットパンツ姿の雪人さんが入ってきた。
普段の仕事のできる社長の姿とは別人のようだ。