『月陽炎~真章・銀恋歌~』-47
48 覚醒を始めた美月が無意識のうちに人を襲っていたのかと思っていたが、まさか葉桐がこのような形で関わっているとは……。
『なんと言うことを……子を奪われる痛みが、あなたに分からないはずないでしょう!』
『それでも……それでも、私たち堕ち神の一族がこの地上で生きるには……我が子を守るためには……そうするしかないのです!』
『そのためには、柚鈴まで差し出すと言うのですね?』
悠志郎が睨みつけると、葉桐は強く握った手を小さく震わせた。
『一度捕食が始まれば……もう……止めることはできません。だから……いつ覚醒するか分からない状態だったから、ずっと私がついていようと思っていたのにっ!私が父に呼ばれ……戻る間に……』
どうやら葉桐がふたりを連れ出したのではなく、覚醒を始めた美月が、すぐ側にいた柚鈴を捕食するためにさらったようだ。
『もし、その捕食に邪魔が入ったら?』
『身体が維持できなくなって……日の出と共に死にます』
葉桐の始祖が何をしたのか悠志郎は知る術はない。
だが、例え罪を犯した者とはいえ、神はここまで残酷な仕打ちをするのだろうか。
『悠志郎さん……あなたに父と同じ邪を払う気配を……神威の気配を感じた時から、こうなることは覚悟しておりました』
葉桐はゆっくりと悠志郎に近付いていく。
あの時……美月の部屋で見せた葉桐の妙な態度。彼女は悠志郎が神威の力に目覚め始めていることを知っていたのだ。
『いやっ、いやぁっ!やめて美月っ!お願いよぉっ!!』
『……柚鈴っ!?』
そんなに遠くない場所から、柚鈴の悲鳴が聞こえてきた。
反射的に走り出そうとした悠志郎の前に、葉桐がまわり込むようにして立ち塞がる。
『捕食が始まりました……もう……止められない』
『くっ……』
捕食を邪魔すれば……美月は死ぬ。
だが、このままだと柚鈴がその犠牲となるのだ。
悠志郎は一瞬躊躇した後、左手をそっと刀に掛けた。
ひんやりとした感触と、そして刀自身から武者震いのような微かな震えが伝わって来る。
『葉桐さん。私はあなたが好きでした』
悠志郎はゆっくりと刀を鞘から抜き払う。
『しかし……どうしても、そこを退いて頂けないのなら、私は神威の子として……あなたを斬らねばならない』
自分自身に言い聞かせるように告げると、悠志郎は刀を構えて葉桐に向き直った。
だが、葉桐は身じろぎひとつしようとはしない。
『娘を愛さない……娘を守らない母はおりません。私は堕ち神の末裔として……美月の母として死にましょう!』
悲しい決意が葉桐の瞳に宿り、頬を伝って零れ落ちた。
悠志郎の悩裏には、有馬家に来てからの楽しい思い出が次々と浮かんでは流れていく。
優しかった葉桐のことを頭から振り払うようにして、悠志郎は刀を握り直した。
『参る……!』
悠志郎は青白い刀身を弧を描くように振り上げながら、葉桐に向かって地を蹴った。
相手は堕ち神。
堕ちたとは言っても、その力は人間の比ではないだろう。
長い戦いを覚悟しながら一撃目を振り下ろした時。
『あぐぅぅっ……!』
目の前の光景に、悠志郎はしばし呆然となった。
葉桐は全く動くことなく、悠志郎の放った剣をその身で受け止めたのだ。
彼女はそのまま間合いを詰め、思わず身を引こうとした悠志郎の身体にしっかりと抱き付いてきた。
柄を握る手に、葉桐の傷口から流れ出る生暖かい血が滴り落ちていく。
『何故……何故です!?何故避けなかったのです!』
『父と戦って……力を消耗しすぎました……』
葉桐は荒い息を吐きながらも、悠志郎を離そうとはしなかった。
『父から娘を守るために……最後は夫の一哉の精まで食らったというのに……やはり、神威の子には勝てる気がしませんでした。ならば、せめてあの子が目覚めるまでの時間稼ぎにならなければ……先に逝った夫に逢わす顔がありません……』
『……なんということを……っ!』
『私の母も、父から私を庇い……死にました。娘のために死ぬことは怖くはありません。母は子の将来を思えば、鬼にもなれるのです……』
葉桐の口元から一筋の血が流れ落ちる。
まるでそれが合図になったかのように、彼女の声は次第に弱々しくなっていった。
『葉桐さん……』
『普通に人の子として、好きな人に愛され……子を育て……老いて行く。私はただそんな女の幸せを、あの娘に与えてあげたかっただけ……』
『葉桐さん……葉桐さんっ!』
悠志郎の頬に当たっていた弱い息が……途切れた。
がっちりとしがみついていた身体が少しずつ軽くなり、葉桐の姿がぼんやりと虚ろぎ始めた。
堕ち神は、その屍すらこの世に残すことを許されないかのように……。