『月陽炎~真章・銀恋歌~』-43
44 『……っ!?』
悠志郎は廊下に点々と落ちている血痕に気付いた。
それは廊下の奥へと続いている。
急いで血痕の跡を辿ってみると、有馬夫妻の部屋へ行き着いた。
部屋の灯りは消えている。
悠志郎は焦る気持ちを抑え切れずに障子の外から呼びかけてみた。
『一哉さん!?葉桐さん!?どうしたのですか?』
だが、中からは気配すら感じられない。
『入りますよ!いいですね!?』
返事を待たずに障子を開け放った悠志郎は、そこにある光景に息を飲んだ。
仲良く並べられた二組の布団。
その片方……無惨に首筋を切り裂かれ、血にまみれた一哉の姿があった。
『一哉さん!!』
慌てて駆け寄って口元に手をかざしてみるが、既に呼吸はなかった。
窓から差し込む月明りに、見開いたままの瞳が蒼く照らし出されている。
……死んでいる。
初めて目の当たりにする亡骸に、心臓が高鳴ってくるのが分かった。
……お、落ち着け……落ち着くんだ!
悠志郎は自分にそう言い聞かせながら、必死になって状況を理解しようとした。
この状態から見るに、これは間違いなく殺人だ。
だとすると、まだ犯人が近くにいる可能性がある。
窓辺に駆け寄って周囲を見渡すが、それらしい人影はない。
……そうだ、柚鈴や美月、鈴香さんは大丈夫だろうか?
そう考えた悠志郎が踵を返し、廊下へ引き返そうとした時だった。
『きゃぁぁぁぁっ!!』
屋敷の中に悲鳴が響き渡る。
『柚鈴っ!!』
その悲鳴が誰のものなのかを悟って、悠志郎は廊下へと飛び出した。
妙に身体が軽いことに気付きながらも、一足の間合いを大きくとって廊下を全力で駆け抜ける。
『柚鈴!美月!』
開け放たれた障子越しに美月の部屋を見まわすが、室内には誰の姿もなかった。
美月が寝ていたはずの布団は壁に叩き付けられたかのように散乱し、手桶は畳の上に転がり、汲まれていた水があたりに黒い染みをつくっている。
『悠志郎さん!何の騒ぎです!?』
大きな物音にただならぬものを感じたのか、隣の部屋から鈴香が姿を見せた。
とりあえず彼女だけは無事なようだ。
『鈴香さん……落ち着いて聞いてください』
悠志郎は大きく息を吐くと、この異常な状況を伝えるべく口を開いた。
『柚鈴と美月がいなくなりました』
『え……?』
『それから……それから何者かが屋敷に侵入して、一哉さんが……殺されました』
『そ、そんな……嘘……』
いきなり衝撃的なことを聞かされた鈴香は、悠志郎の言葉を否定するようにゆっくりと首を振ったが、廊下に落ちている血痕に気付いて表情を凍らせた。
そして、ふらふらと荒れた美月の部屋を覗き込む。
『柚鈴と美月が……いなくなった……?父様が……殺された?……嘘よ……そんなのうそよぉっ!!』
『鈴香さんっ!』
悠志郎は、声を震わせながらよろける鈴香の身体を急いで抱き留めた。
『あぐっ……ううっ……悠志郎……さん……っ』
『いいですか、よく聞いて、事態は一刻を争います』
『は……はいっ……』
『私は近くに犯人がいないかを探してみます。少なくとも柚鈴の悲鳴は聞こえました。この暗がりの中、ふたりを連れて逃げたのならそう遠くへは行けないはずです』
そう説明すると、悠志郎は鈴香にふたつのことをするように指示した。
ひとつはこの件を警察に連絡すること。
そしてもうひとつは、姿の見えない葉桐を探すことだ。
葉桐は医者に行ったはずだが、時間からしてもう戻っていなければならないはずである。
この騒ぎの中で姿を見せないというのが気になった。
『わ、分かり……ました……』
悠志郎の言葉に頷きはしたが、鈴香は不安げに床を見続けたまま動こうとはしない。
突然これだけのことが起こったのだ。
いつもは凜とした強さを持った彼女も、不安に押し潰されそうになっているのだろう。
だが、今はいつものように気を強く持ってもらわねばならない。
悠志郎は鈴香をぎゅっと抱きしめ、背中を少し強めに叩いた。
『怖いでしょう。不安でしょう。でも、今はあなたの力が必要です。いつもの強気な鈴香さんに戻ってください』
『はっ……くっ……ううっ……』
何度か背中をぽん、ぽんと叩いているうちに緊張が解け始めたようだ。
少しずつ震えが治まり、吐息も緩やかなものへと変わっていった。
『悠志郎……さん……いつまで抱いておられるのですか……?』
胸の中で微笑む鈴香の声は、すっかりいつもの気丈な声だった。
そっと身体を離すと、彼女は少しばかり照れ臭そうに微笑んでいた。
『上出来です、鈴香さん。では後のことを頼みます』
『あ、待って……悠志郎さん』
そのまま駆け出そうとした悠志郎を呼び止めると、鈴香は自分の部屋に戻って一振りの刀を持ってきた。
その飾り気のない刀を、そっと悠志郎に差し出す。
『有馬家に伝わる霊刀です。残念ながら名前は分かりませんけど……もしものことがあったら使ってください』
相手が何者か分からない以上、武器はあった方がよいだろう。
『……ありがたく』
悠志郎は霊刀を受け取ると、気をつけて……という鈴香の声を背中に受けながら、玄関で草履を引っかけると急いで外へと飛び出した。